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一歩を踏み出すだけ

一歩踏み出す勇気、という言葉は誰しもが一度聞いたことがあるだろう。そして、それを体感したこともきっとあるに違いない。僕だってそんな体験は何度だってしたことがある。

 僕はこれまで何かやりたいことだとか、好きなことだとかを見つけられずにダラダラとした日常を送ってきた。だからと言って、不幸だなと感じたことはそんなになかったし、だらっと続く緩いぬるま湯に浸かっているのも悪くはなかった。けれど、いつしかそんなぬるま湯に追い焚きをする出来事が人生には必ず訪れる。

 受験を経て、第一志望の中学校に入学した。第一志望と言っても特別思いがあった訳でもなく、なんなら親の意向がほとんどなのだが。入学したはいいものの、早速悩まされることになった。部活動だ。小学校の頃にスイミングやピアノ、サッカーとそこそこ習い事に従事していたのだけれど、本格的に取り組む部活となるとどれも億劫で仕方なかった。自分の技能なんてものは、素人に毛が生えた程度で、キッチンで栽培されるネギが伸びた程度で、やっていく自信がなかったのだ。かといって新しいものに挑戦しようと思う気合いも、その一歩を踏み出す勇気も持ち合わせていなかった。そんなわけで、めんどくさくなった僕は、また親の意向でゴルフ部に入部することにした。帰宅部でもよかったのだが、中高一貫校で部活動もやらずにいるのもなぁと思ったのを覚えている。ゴルフ部の活動は週に2回打ちっぱなしに行くだけで、厳しい上下関係も練習も無く、相変わらず僕はぬるま湯に浸かる生活を続けることになった。そんなぬるま湯生活は中学2年生になるまで続いた。

 2年生になり、新たな友人が増えた。僕はまた憂鬱だった気がする。1年間構築したものが崩れ、また構築せねばならない。中学1年で話していた友人なんてものは大抵関わらなくなる、だるい。まぁ、でも僕は社交性に問題があるわけでもないし、人に嫌われないように猫を被るのは苦痛ではなかったからそれなりにうまくやっていたな。そこで出会った友人に、フラフト部に入れよと勧誘を受けた。フラフトなんていう聞いたこともないスポーツに僕は入らないよと一蹴した。後から知ったけれどサッカーのように足を使うスポーツではなかったから、学生時代に蹴りを決めたのはこの一回だけだ。その友人は中学からフラフトを始めたようで、部員も皆んなそうだと言う。まるで一歩踏み出せない僕の内心を勘付いたかのようなセリフだった。その勧誘は部活動のある日には恒例行事になった。しかも、同じクラスに3人ほどフラフト部の奴らがいて、3人で囲うように勧誘されるようになった。もはや新手の宗教じゃないか。週に3回も勧誘を受ける日々に痺れを切らした僕は一回くらいなら体験行ってもいいよと返答した。3人の目つきは変わり、じゃあ今日な!と半ば強制的に体験に行くことになってしまった。当時はそんなこと言わなきゃよかったと後悔したのだが、今では感謝しかない。初めてフラフトたるものをその前にして、実際に体験してみて楽しいなと感じてしまったのを覚えている。フラフトは正式名称をフラッグフットボールと言うらしい、防具を必要としないアメフトのようなスポーツで、腰につけたフラッグを取ることで攻撃を止めるといったものだった。小学生のレクで大人気の尻尾とりを思い出した。その一度の体験を境に僕はもう入部したかのような扱いを受け、次の部活動の日に体育着を忘れると普通に怒られてしまった。厳しいって、僕の親友のジョージもそう言っていた。怒られることは嫌だったので、部活動の日には体育着を持参し、練習に参加するようになった。他の部員とも仲良くなり、流れで入部した。フラフト部を始めてからというもの、僕の日常は充実し始めた。これまでYouTubeやアニメに費やしていた時間は体を動かす時間となり、身体の疲れから夜更かしも減った。朝練があるから早起きもするようになったし、体調が悪くならないようにきちんと朝食も摂るようになった。休日には練習試合や大会などに参加したりと、とにかく日常が廻り出した感覚を抱いた。これまでは何をするにも時間を持て余すぬるま湯にぷかぷかと浮かんでいた生活が、確かな熱を含んだものになった。一歩を踏み出したことで、自分の道が現れた瞬間だった。

 一歩を踏み出す勇気を持つこと、それは確かに大切なことだと肌身を持って感じた。人生には何をしてもいい時間というものが多い。特に社会人になるまでは。ギターを習ってもいいし、映画を見てもいい。今僕がそうしているように文章を綴ることだって可能だ。全ての物事に等しく価値があって、等しく無価値な世界である。そんな選択肢が沢山ある中から、君に決めた!を行う。自らでフラフト部という選択をする。それは、他の選択肢を無くし、自らの選択肢の幅を狭めることだ。しかし、その一歩を踏み出すことで自分の道が定まり、価値が生まれ、日常は充実の一途を辿る。

 けれど、その後は全て自分次第。一歩目を踏み出したことは素晴らしいことではあるが、誰に導かれても良いのだが、二歩目からの歩み方は自分で決めなくてはならない。僕は、僕は、、、そこで失敗した。フラフト部に入り、高校では流れでアメフト部へと進んだ。それは、自身の選択ではあるのだが、そこに思考が存在しなかったのだ。友達がそうするから、アメフトに流れるのがルートだから。そうやって言い訳じみた思考でその道を選択した。思考のない空っぽな人間は結局、突如現れた壁の前に右往左往することしかできず、退部した。今となれば自分が何をやりたかったのか、何を得たのか、何を感じたのか、しっかり考えるべきであった。思考の末に選択を取ったのであれば、今もこうして二歩目からの歩み方に悩むことはなかったのだろう。

 大人はしばしば、何事もチャレンジが大切だと言うだろう。やってみたら意外と楽しさを感じることを知っているから。日常が廻りだすことを知っているからだ。でもね、本当に大切なのは二歩目からの歩み方なんだ。自分が何がしたいのか、自分がやりたいことをやるためには何が必要なのか。今や、人々は目的地に行く際、脳死でスマホの地図を開くだろう。きっとそれは最適解で、実に不便がない。だから、僕は今も二歩目の出し方を知らない。ぬるま湯の生活はぬるま湯のままでいる。

 4月になったから、そろそろ追い焚きをしてもいい頃だ。明日はレシピを見ずにハンバーグを焼こう。

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