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「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものを本気で求めているのなら

もはや教えられる必要がなくなるまで

「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものについていうなら、自我と同一化してしまっている私たちにとって「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものが、もはや達成すべきものとなってしまっています。

もともとが、本来、ただそうであるものなはずなのに、です。

たとえば、私たちはコースを通して「自分たちは神の子です、神の王国にいるのです、ワンネスなのです」ということを学んでいるとはいえ、日常に戻るならば、私たちはすぐに「この世界が現実であり、目の前の問題のほうが重要である」というふうに、コースが教えていることなどすっかり忘れてしまうわけです。

そのように神の国、天国、真理、ワンネス、というものがもはや不確実なものとして成り下がってしまうわけです。


”完全無欠なるものが今では完成されるべきものとなっているとは、奇妙なことである。”(T-6.Ⅳ.8:5)

奇跡講座/中央アート出版社


「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものは完成されるべきものどころか、じつは、それこそが自然で当たり前なことなのだということです。

にもかかわらず、この世界にいる私たちは「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものを、どこかはるか遠くにあるものとして捉えてしまっています。

そして、肉眼で見えているこの世界こそが確固たるリアリティ(現実)だと信じています。

それが何を意味しているのかというなら、私たちは「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものをずっと拒絶しているのだということです。

だからこそ、私たちは、何度も何度も、繰り返し繰り返し、コースが教えていることを学び、そして自分に教え続ける必要があるのです。


もはや教えられる必要がなくなったとき、あなたは神をただ知るのみとなる。(T-4.Ⅱ.4::9)

奇跡講座/中央アート出版社


それが、当たり前になるまで、です。

もはや、その努力が必要なくなるまで、です。

自分がこの世界の夢を見ているかぎり、この世界の夢を使って、自分に教え、学んでいくということです。

それが私たちに求められていることです。

忘れてしまうかぎり、繰り返し学び続けるしかありません。

訓練、そしてまた訓練、それ以外ありません。

「覚醒」「目覚め」「悟り」といったものを本気で求めているのなら、それは当然のことであり、必須であるということを覚えておきましょう。


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