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この世界のすべては子どもの砂場遊びのようなもの


攻撃することなく、裁くことなく見なさい

ワプニック博士は、こう云います。

「この世界のすべては子どもの砂場遊びのようなものです」と。

そして、こう云います。

「そして、砂場で遊んでいる子どもたちを攻撃することなく、裁くことなく見なさい、それが私たちがしていくことです」と。

「彼らが何をしているのか?それを(聖霊と共に)見なさい」と。

さらに、こう云います。

「そして、(一緒に)遊ぶことはしないように(警戒していなさい)」と。


赦しのまなざし

ワプニック博士が云っているその視点(視座)とは、まさに「聖霊のまなざし」「赦しのまなざし」と呼ぶことができましょう。

つまり、聖霊(イエス)は、その視点から見ているということです。

聖霊の視点(ヴィジョン)」とは、そういうものだといえます。

そして、その視点から見ることを「奇跡」と呼び、私たちはそれを修得していくことが求められているといえます。

奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。それは誤りを取り消すが、知覚を超えるところまで進もうとはせず、赦しの機能を超えようともしない。(W-pII.13.1:3-4)

奇跡講座/中央アート出版社

その視点から眺めている自分(主体)は、もはや個人の自分ではありません。

すべて(の自我)を包含して眺めている、全一(全体)なる自分です。

その自分は、自分が何者なのか?を自覚しています。

その自分は、「自分は時空の夢の中には居ない」と自覚しながら、夢の主人公の五官の窓を通してこの世界を知覚して(眺めて)います。

コースの形而上学に基づいて実践をしていくならば、その自分(主体)を思い出すことができます。

ちなみに、その自分を、「決断の主体」と呼んでいます。

そう、その自分へと自己認識(アイデンティティー)をシフトしていくことが、私たちがコースの実践で目指しているものなわけです。

そのための実践の手段が、「赦し」と呼ばれている実践です。

その自分は、この時空の夢の世界から一切影響を受けることがありません。

その自分は、一切脅かされることがありません。

そこには、この世界とは一切関係ない完全なる平安と静けさがあります。

実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
(『奇跡講座』テキスト序文より)

奇跡講座/中央アート出版社

その神の平安とは、一切のすべてを包含しています。

私たちは、赦しの実践を通してその神の平安の反映を経験していくことになります。

そう、それを体現していくならば、この世界の夢の一切を慈しみのまなざし(赦しのまなざし/愛のまなざし)で眺めるようになるといえましょう。

コースはそのような霊性の道であるということを覚えておきましょう。


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