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「ただ在る」という神の在り方を修得する


「私はいない」といくら知っていても意味をなさないその理由

ノンデュアリティのスピーカーさんたちがよく言葉にする、

「私はいない」

という概念は、たしかに真理を述べているとも言えますが、ただし、それだけでは不十分だと言うことができます。

それは「行為者はいない」ということを意味するわけですが、そのことをいくら知ったところで、ほとんど助けにならないからです。

なぜなら、私たちは「私(自分)は存在している」「自分の意志で決定して行為している」と信じているからです。

つまり、私たちは個別の自分として存在していると信じているわけです。

たとえスピリチュアルな知識として自分たちは肉体ではないと知っていたとしても、「自分は魂である」というような個別の自分を信じていたりするわけです。

そのように私たちは分離(自我/二元性)の思考体系と共に「私」という概念を信じているわけで、それに対して「私はいない」といくら言い聞かせても、ほとんど意味をなさないのは当然のことです。

むしろ、そのような状態で「私はいない」という概念をアファメーションしていくならば、ただただ葛藤していくことになるだけです。

そのような実践をしてもまったく助けにならないことを経験してきた者たちにとって、コースはとても有益な霊性の道だと言うことができましょう。

ようするに、非二元や真理を探究する者であるならば、私たちはどのような実践/訓練をしていけばいいのか、そのことについてしっかり理解しておく必要があって、そのためにコース形而上学の学びと理解が必須となるのだということです。


何をも否定せず、あるがままを受け入れている状態

古典(いにしえ)の非二元の教えではどんなふうに真理を述べているか?

というと、

私はいない、
そして、
「私はいない」も無い、

というふうに、仏教(金剛経典)では、そのような表現の仕方をするということです。

「私はいない」という表現だけでは、そこには「私は存在する」という概念が存在することになるわけで、それではまだ不十分であり、「私はいない」という概念すらも無いのが真理であると表現しているといえます。

喩えるなら、その表現はこの世界に居ながらにして目覚めている状態を表していると言うことができます。

それは、「実相」に目覚めているわけではありませんが、「実相」を反映した世界(実相世界)を知覚している状態だと言うことができるでしょう。

夢(虚偽)を夢(虚偽)として完全に自覚して知覚している状態ということです。

それが夢だと完全に分かって(悟って)いるならば、そこには何の問題もないことが分かっているわけです。

そう、それこそがコースの学習者の私たちがゴールとしているものだといえます。

つまり、何をも否定せず、あるがままを受け入れている状態になっていくことを目指しているわけです。

コースでは、それを「寛大さ」「防衛しない態度」「開かれた心の状態」といった神の教師の特徴として表現しています。

言い換えるなら、それは「ただ在る」という心の状態を表していると言うことができます。

私たちはコースの学びと訓練を通して、それを成し遂げようとしているのだということです。

というのも、それこそが私たちの本来の在り方、つまり、神の在り方であるからです。

私たちがコースの学びと実践を通して、個別性、特別性というものを赦していくとき、そうなっていくのだということを知っておくと良いでしょう。


コース学習者の私たちは実相世界をゴールとしている

コースが目的としているものは何か?
何を目的にコースを学んでいるのか?

というとき、ワプニック博士は次のように云っています。

「私たちコース学習者のゴールは、”自分は心である”ということを完全に思い出すことです」と。

つまり、コースでは、「自分は心である」ということを完全に自覚したところから見ている世界を実相世界と呼んでいて、コース学習者の私たちはその実相世界をゴールとしているということです。
(ちなみに、「実相」と「実相世界」は異なります。「実相」の一歩手前の段階を「実相世界」と呼んでいます。)

そして、実相世界が完全に知覚されるようになるとき、神(父)のほうから最後の一歩を踏み出して、「私」という主体も、世界という客体も消滅して実相(ワンネス/智識)へと目覚めるのだと、コースでは述べられています。

智識に再び目覚めるための最後の一歩は神によって踏み出される。(T-7.Ⅰ.6:3)

奇跡講座/中央アート出版社

つまり、神と合一するその一歩手前の段階の「自分は心である」と完全に思い出すところまでが、コースの学習者の私たちが目指しているものなのだということです。

それ(実相世界)は、もはや個別性も特別性も止滅した世界だといえます。

「自分は一なる心である」と自覚したまま、見るものすべてをあるがままに見ている状態です。

それは、すべてを愛している状態ともいえますし、もっと正確な言い方をするならば、否定がまったくない状態だと言うことができます。

そう、コースの学びが進んでいくにつれて、私たちは否定のない世界を知覚するようになるということを覚えておくと良いでしょう。


個別性、特別性の止滅

上記でも述べましたように、コース学習者の私たちは「自分は心である」ということを完全に思い出していくことを目的としているということです。

それはつまり、正しい心(聖霊)と完全に同一化するということであり、つまりは、真の知覚を完全に修得した状態のことを意味します。

そうなるまでの間は、私たちは何度も個別の「私」と同化して、この(外側の)世界を知覚することになります。

それは、たとえ悟りの経験をしたとしても、贖罪を受け入れて真の知覚を完全に修得する(実相世界に至る)までは学びと訓練を要するということです。

個性、個別性、特別性といったものを維持しようとするのが自我です。

私たちは今もその自我と同一化しています。

私たちがしていかなければならないのは、その自我を咎めずに見ることをしていくということです。

自我を咎めずに見るためには、内容で見ていくことが求められます。

それは、形態の知覚を超えていくということです。

肉眼の形態の知覚にとらわれてしまうとき、別々の個性(キャラクター/人格)があるかのように見えますが、形態を超えて内容で見ていくとき、みんな同じ一つの自我であることが分かります。

そう、「みんな同じ一つの自我である」という見方をしていくのが、コース実践において私たちがしていくことなのだということです。

つまり、自と他の共通の利害から見るということです。

そうしていくとどうなるのか?

というと、自と他の区別がなくなっていくわけで、「個」という概念の無い知覚の仕方、在り方へとシフトしていくことになります。

いわゆる、個別性、特別性というものが止滅していくことになります。

そのようにして、私たちは分離していない全一なるもの(一なる心)であることが自覚されていきます。

それと共に、その全一なるもの(一なる心)こそが私たちの真のアイデンティティーであることが理解されるようになっていきます。

その「心」の自分はただ一つの幻想を見ているだけであり、その幻想を幻想(虚偽)として知覚していくことになるということです。

それこそが、真の知覚(ヴィジョン)であり、正気(正しい心/聖霊)から見ている知覚です。

そこから見るとき、そこには絶対なる平安があります。

それが、コースで言う「赦し」です。

赦しの実践を通して真の知覚(ヴィジョン)の経験を重ねていくことによって、いまここが天国(わが家)であることが次第に思い出されていくことになります。

つまり、天国(実相)の反映である実相世界を知覚するようになっていくということです。

コース学習者の私たちはそのようにしてこの世界の夢から目覚めていくのだということを知っておくと良いでしょう。

このコースはけっして神秘的でもなければ曖昧模糊とした道でもありません。

そこには、しっかりとした確実な階梯があるのだということを肝に銘じておきましょう。


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