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私たちが「人生」と呼んでいるものとは?

観察者となれ

ワプニック博士は次のように語っています。

「いわゆる私たちは、スクリーンの前に座って、それがはじめて起こったように、すでに起こっていることを観察している観察者です。 しかしながら、私たちの経験では、私たちは実際に観察しているその一部に参加してしまっています」と。

"Thus, we are observers sitting in front of a screen watching what has already taken place, as if it were occurring for the first time. Our experience, however, is that we are actually part of what we are observing."

ー「FACIM Twitter」よりー

それが意味しているのは、私たちがこの世界で経験していることのすべてが撮り終えたドラマなのだということです。

本当の私たちは、時空という3D(3次元)のスクリーンを肉体の「五官の窓」を通して知覚しているだけというふうに言うことができます。

その「五官の窓」から3Dのドラマを観ている者(夢を見ている者)こそが、私たちの本性なわけですが、今や、3Dドラマの中に入り込んでしまって、私たちは自分の本性(真のアイデンティティー)をすっかり忘れた状態になっていると言うことができます。

そういうことについて、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、以下のように述べられています。

時間とは、手品のように巧妙なからくりであり、広大無辺なる幻想である。その中では、まるで魔法のように、人影が現れては去っていく。しかし現象の背後には、変わることのない一つの計画がある。その台本もすでに書かれている。あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる時も定められている。私たちは旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している。(W-pI.158.4)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちがこの世界で経験しているものや、この世界で起こっていることは、「すべてその台本は既に書かれており、時間の中で起きるすべては既に起こったことである」とコースは教えてくれています。

そして、私たちはそれらを「旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけ」なのだということです。

しかもそれは、「もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している」だけなのです。

そして、それを観ている私たちは、それを「人生」と呼んでいるわけです。

要は、私たちはここで何をしているのか?

というなら、過去を見ているだけだといえます。

それが、正しい思考体系(聖霊の思考体系)から見た視点です。

私は過去だけを見ている。(W-p1.7)

奇跡講座/中央アート出版社

とは言いましても、私たちは、この世界を、この人生をまったくそのようには捉えていません。

すでに終わっている過去を反芻しているにしかすぎないにもかかわらず、それがあたかもはじめて起こったかのように知覚していますし、ドラマの中の自分が何かをしていくことによって、自分を変えていくことによって、ちがう未来になる、ちがう人生になる、ちがう世界になるというふうに信じています。

だからこそ、私たちはコースの学びと実践を通して真の知覚を獲得していくことが求められているのだといえます。

コースの学びが深まっていくならば、心(夢を見ている者)の自分が自覚されていくと共に、その知覚もシフトしていくことになります。

そうなるならば、肉眼で知覚しているものすべてが非実在(虚偽/嘘)であることが認識されるだけでなく、毎日、毎時、毎分、毎秒が原初の瞬間である「いま」なのだということが分かってきます。

というのも、形態(人、もの、こと、状況、環境)は様々に違って見えていたとしても、ただ同じパターンを繰り返しているだけだと分かってくるからです。

つまり、すべては「いま」起きているのだ、というコースの云っていることが感覚的に分かるようになるということです。

その「いま」とは、時間を超えた「永遠の今」です。

自分(たち)は本当は「永遠の今」という時空の外に居るのであって、知覚(五官)の窓を通してこの世界の夢を経験しているだけなのだと自覚されていきます。

毎日、毎分、刻一刻、あなたは恐怖の時間が愛の座を奪ったあの一瞬を再び生きているだけである。(T-26.Ⅴ.13)

奇跡講座/中央アート出版社

今では私たちはすっかり人間である肉体と同化していて、時間の中に入り込んでしまっているわけですが、地道な訓練をしていくことによって、上記のことが自覚/認識できるようになっていきます。

つまり、真の知覚へと訂正されていくことになるということです。

”恐怖の時間が愛の座を奪ったあの一瞬”、それこそがすべての夢のはじまりの瞬間です。

その「原初の瞬間」は、いつかどこかの遠い昔に起きたのではありません。

それは「いまここ」で起きているのだということです。

その「いまここ」とは、時間と空間のこの世界とは関係のない次元にあり、それは宇宙がはじまる前から、そして宇宙が終わっても在り続けている次元のことであり、リニアな時間軸上ではない「時間のない領域」のことを指します。

私たちは、この時も今も尚そこ(いまここ)にいながら、それぞれがあたかも「自分は人間である、自分は肉体である」という経験をしているだけということです。

つまり、「自分は人間である、自分は肉体である」と思っていることが全くのウソであり、本当の自分(私たち)はこの世界の夢の外側にいるのだということです。

本当の自分は、この世界の中ではなく、時空を超えたところに居て、そこからこの世界の(分離の)夢を見ているだけです。

そのことに気づいているところから見ている知覚が、コースで「心眼(ヴィジョン/聖霊の視点)」と呼ばれているものです。

その視点(心眼)から見る訓練をしていくならば、この世界で起きている形態(ものごと)はもはや「影」でしかない、ということが明らかになります。

つまり、すべては実在しない、すべては無であり、「空白」をただ見ているだけだと体験的に理解されてくることになります。

その知覚を完全に修得していくことが、コース学習者の私たちが目指しているものであり、コースの実践を通してもたらされていくもの(成果)だと言うことができます。

ようするに、

コース学習者の私たちに求められているのは、

時空間の中の肉体の自分と同一化したところ(肉眼)から見るのか?

それとも、

時間と空間を超えたところの「いまここ(心眼)」から見るのか?

ということです。

その実践においては、その選択だけが重要視されるということです。

それを、コースでは、自我と共に見るか?聖霊と共に見るか?という言葉で表現しているわけです。

そして、ワプニック博士が云っている「観察者」とは、後者のほうを云っているのであり、まさにその観察者が、「心(決断の主体)」と呼んでいるものです。

その観察者である自己を自覚/認識していくことによって、自分は夢(時空)の外側に居ることが認識されるようになります。

つまり、この世界から一切影響を受けることのない真の自己(真のアイデンティティー)を自覚するようになるということです。

その真の自己を完全に思い出すことが、コース学習者の私たちが目残しているものだということです。


資料引用:下記のサイト「facim.org」より


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