情報氾濫時代から情報選別時代への転換
連日報道される新型コロナウィルスに関連する情報。
単純なコロナウィルス罹患による被害よりもむしろ二次的な被害、それはつまりコロナハラスメント、離婚、虐待、自殺など。
長期にわたる外出自粛や経済活動停止に伴う、不安、焦り。
更には一部の人間が自粛に応じず河原でバーベキューをしたり、虚偽の申告をして帰省したりして、あちらこちらで濃厚接触をしてスーパースプレッダー呼ばわりされたり、またそれをこれでもかというくらい叩こうとする民意があったり。(自粛警察というらしい、、、)
各国が制限の緩和措置を取り始める中、依然として篭城作戦を実行する日本政府。
対策委員が横断的な組織編成がなされていないため「感染症」を押さえ込むKPIしか掲げられてないとの指摘がなされている。
これについては一理あると思う。
ここについても書きたいことは山ほどあるが、今日の主張は違う所にあるので割愛する。
表題の情報氾濫時代から情報選別時代へ
キーワードは情報選別力の向上だ。
なぜこれを書こうと思ったか?
正直、コロナ騒動が起こる前から常々思っていたことではあったが、今回の騒動でよりそれが顕著化しているように感じたからそろそろ書こうと思った次第だ。
分かりやすいところで言うと今回の様々な物品の買い占め騒動が挙がる。
中には何の正当性もないデマ拡散によって起こった買い占めまであった。
これはいよいよ危険だ。
この現象とその裏の真の課題について、考察していきたいと思う。
1.クリティカルシンキングのない人
クリティカルシンキングとは批判的思考で、思考力と言ったらまずこれと言うくらい、重要な思考法である。
物事を批判的に捉える。
一見すると何とも嫌味ったらしいが、実はとても重要。
その主張の根拠は?妥当性は?裏付けは?
そう言っているけど、本当にそうか?
といった具合に、ありとあらゆることを批判的に捉えてみる。
ちなみに「否定」と「批判」は全く別物である事も断っておきたい。
批判は、事象に検討を加えて妥当性を判定する。誤りを指摘し修正を図るといった意味合いがあるのに対し、否定は打ち消す事、認めない事と言った意味合いがある。
つまり否定的思考をしてしまうと単なる全否定人間になってしまうのである。
話を戻すが、あくまで主観的ではあるがこの批判的思考をしている人があまりにも少ないように感じる。
これにはいくつかの理由がある。
2.何を言うか?より誰が言うか?と大手を振って言う人
日本人は権威に従属するが故に発言内容よりも発信元、つまり話の内容よりも誰が言っているかを重視する。
いつやるの?今でしょ。でお馴染みの林先生が言っていたらしい。
これについては全く同感で、無批判にその人の発言を信用する。
これは極めて危険だと考える。
そもそも何故このような事が起こっているのか?を考えてみたい。
人が人を信用するときに、一体何が作用しているのだろうか?
ここに大きなポイントがあると思う。
一つは肩書きという権威性。
〇〇大の教授や、医師、弁護士、エコノミスト、etc...
もっともらしい肩書を挙げればキリがない。
だがそのような肩書きを持っている人の話を聞いていれば、無批判でも妥当性の高い情報が手に入るのだろうか?
二つ目は信用性。
「〇〇さんのいう事だったら間違い無いから。」
このようなフレーズは良く聞くし、これ自体悪い事では無いと思っている。
両者の間には、信用が構築されるまでのプロセスである「ストーリー」がある。
このストーリーは周りがとやかく言う問題では無いと思う。
だが、やはり無批判に受け入れると言うのは危険だと思う。
詐欺師は最初は天使の覆面をつけているもの
今、心理系テクニックが巷に出回っていてそれを悪用する人間も増えている。
人の認知プロセスをハックして思考力をバグらせ、ここぞとばかりに危機感を煽った後に自分が救世主だと言わんばかりに相手に手を差し伸べ、完璧に信用させる。
脳を完全にコントロールされた人は外界の声は届かない。
そして、大金を貪り食われる事になったりする。
いわゆる詐欺師はファーストコンタクト時からいきなり騙したりはしない。
何度も甘い蜜を吸わせた後に、一気に刈り取りにかかる。
その間に盤石な信頼関係を築きながら。
相手が詐欺師ではなかったとしても、これに近しいような事は沢山起こっているのではないだろうか?
相手がどんなに信用している人であったとしても、その時その時の発言内容をしっかり精査すると言うスタンスは必要なのではないか?
3.人間の脳の仕組み(好奇心と選択的集中)
もう一つ批判的思考をしなくなる原因がある。
こちらは人間の脳の発達プロセスにある。
赤ん坊を想像してみてほしい。
赤ん坊は外界と自己の境すらない状態からスタートし、様々な「探索行動」を経て、自己と非自己を認識していく。
そうして自分のこと、相手のこと、世界の事を区別して認識できるようになっていく。
小さい頃は自分に情報のストックがないから何にでも興味を示す。
つまり好奇心が旺盛だったということだ。
そして同時に、注意散漫だったとも言える。
好奇心は人間が生きながらえるために重要な動機付けだったと言える。
何が安全で何が危険か?などのデータ収集は好奇心に基づく探索行動で身につくからだ。
好奇心旺盛と言う言葉は、ある特定の人格のような語られ方をされるが本来、全人的なものなのだ。
では何故、特定の人格のような捉えられ方になってしまったのか?
これは、社会プロセスにある。
我々は幼児期以降は揃って学童期を経て社会人になり、そして老いていく。
ある程度決まった枠の中で生きていくのである。
そうすると、その枠の中で生きていくための最適化を図ればそれで十分になり、視野が狭くなり脳の使い方が限局的になる。
大人になるにつれ、集中力が高いことが是とされ、選択的注意が優位になっていく。
その間にパーソナリティも確定していくので、自分はこういう性格であり、こういう考え方であり、こういう脳の使い方であるし、それ以外のことは出来ないし、するつもりもありません。
と言った具合に自ら自分の可能性に選択圧をかけるようになっていく。
結局この現世は、自分という主体の主観で成り立っている。
自分自身が世の中をどう捉えるか?で世界の見え方は全く変わるものだ。
思考の柔軟性を保つという意味では、多面的な視点で物事を捉える習慣をつけたほうが良さそうだ。
4.現代は情報発信黎明期
現代は個人が自由に情報を発信できる環境が整っている。
SNSやYouTube、ブログなど。
様々な個性が拡張し、新たな価値が創出されて個人としての可能性が伸ばしやすくなった。
テクノロジーの発展とともに新たな境地を生み出したことは恩恵に値する。
一方で、無視できない問題もはらんでいる。
情報を発信する側が、きちんとしたフィルタリングを介さないで情報が拡散できてしてしまうため、その情報自体の信憑性が担保できない。
これが、情報氾濫時代の最たる問題点だ。
引用元の怪しい主張、2次情報、3次情報の氾濫、誤釈、ミスリード、ポジショントーク。
おびただしい不確かな情報が日増し更新で降りかかってくれば、誰だって混乱して判断力を見失う。
クリティカルシンキングとは、思考の筋トレのようなものだ。
認知負荷に耐えられない人から、誤情報の餌食になっていく。
今回のコロナ騒動での真の問題点はそこにあるように感じる。
多くの人がクリティカルシンカーとなれれば、もっと地に足のついた、冷静な対応が可能となりパニック行動や情動優位の行動は避けられ、結果として社会の緊張感はもっと緩和されるはずである。
5.情報選別時代へシフトするためには?
情報発信が無法地帯化している現代だが、必ず整備が進む。
これは歴史が証明している。
個人の動きとしては、氾濫している情報の中から、いかに妥当性の高い情報を選別出来るか?が今後の生存戦略のカギになる。
そう言った未来予測がされる中、今からできることとしてはやはりクリティカルに物事を捉え、その妥当性を吟味するという事を怠らないという事だと思う。
思考体力のない人間は今後間違いなく淘汰の一途を辿る。
安易な情報に飛びついている場合ではない。
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