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「脳が壊れた」鈴木大介著〜脳卒中で片麻痺リハビリ中

2022年7月49歳の時に脳卒中で倒れ入院、1週間後めでたく50歳に。
後遺症で右片麻痺になり7ヶ月のリハビリ入院。12月noteをはじめ、2003年2月に退院。現在は通所リハビリ継続中。これまでの経緯と入院闘病記はこちら↓


脳が壊れた

ボーダーラインにいることの生きづらさ

わたしは昨年(2022年)7月に脳出血を発症し、一命は取り留めたものの右手足の麻痺という後遺症を負いました。

7ヶ月半入院の後、今年2月に退院はしましたが、今もリハビリ中で復職はできていません。ただし手足ともに全廃ではないので、手は補助手として、脚も杖と装具でなんとか歩行は可能です。

しかしながら、右利きだったので右手が使えないということは、いまだに文字も書けませんし運転もできません。スマホ入力もパソコンのキーボードも左手で打っています。

利き手交換という選択もありますが、今はあえて積極的にはせず、できるだけ麻痺した右手を使用するように心がけてはいます。使用しないと動かなくなるのは目に見えているので。

それらに加えて、わたしには「高次脳機能障害」という後遺症があります。

一般的によく知れれている「失語症」のような障害も「高次脳機能障害」に含まれますが、わたしの場合「一見すると障害には見えない」程度のものです。

目に見えないだけに、家族を含め周りの人たちにはなかなか理解してもらえず。また説明しようにも、この障害のせいで上手く口頭で説明ができないという悪循環。

毎回モヤモヤとする気持ちやジレンマに苛まれ、伝わらないもどかしさから、もう理解されなくてもいいや…と最近はすっかり説明も諦めていました。

目に見えない障害の言語化

そんな時です。鈴木大介さんのことを知ったのは。

当事者として高次脳機能障害について講演をしている人がいる。X(旧Twitter)で流れてきた記事が、たまたま目に留まりました。

「高次脳機能障害」とは、一般にはあまり聞き馴染みのない障害だと思います。わたしも自分が当事者になって、初めて聞いた言葉でした。

鈴木さんご自身はもともと取材記者で、「言葉を使う仕事」をしていたからこそ、病前の自分とは違うという喪失感、できないことへの焦燥感なども多数経験されています。

また障害が軽度だったこともあり、不自由感や辛さといった、当事者ならではの感覚を言語化し、伝えることに取り組まれているそうです。

本書は、そのような入院中から退院後の経験を、時にはコミカルに、時にはルポライターとして観察眼鋭く書き綴ったエッセイです。

十人十色ではあるけれど…

本を読み終えての感想は、脳卒中はやはり症状も十人十色、後遺症も十人十色なんだなということ。当たり前だけど、鈴木さんと内容も程度も全く同じ症状の人はいないし、全く同じ後遺症の人もいないと思います。

それについては、入院中にこんな記事を書いたのでよろしければ↓

そんな中でも、「そう!それ!」と共通する想いや、共感する部分も大いにありました。

例えば、

不自由なのに、やりたくてもやれないのに、分かってもらえない。それを言葉にすることもできないとき、まず当事者の中に湧き出す感情は苛立ちだ。(中略)やれないことを説明することをもう諦めて自分を閉ざし、人とのコミュニケーションを最小限にする。

「脳が壊れた」より

この部分。これは鈴木さん自身ではなく、ルポライターとして取材してきた人たちの生きづらさを描いたものですが、鈴木さん自身も言語化はできたものの、声として会話として「発話」するのが困難だったと言っています。

「話しづらい」という障害。まさに今のわたしにも同じ障害があり、日々悩まされています。

でも身近な家族や友人もわたしがそんなことに悩んでいるということはわからないだろうし、きっと周りの誰も深刻には捉えていないでしょう。

最初の頃こそ、その大変さを訴えてきましたが、だからって解決するわけじゃないし、最近はすっかり諦めモード。口を閉ざした方が、精神的にもラクなので。

高次脳機能障害の恐ろしさは、症状そのものもさることながら、「目に見えない」部分が「無かったこと」にされて、苦しんでいることすら気づかれづらいところにあるのでは?と改めて思いました。

「ヤバイ患者さん」だったわたし

本書の最初の方に

フロア中央部にあるナースセンターに近い病室ほど「ヤバイ患者さん」が入院しており、

「脳が壊れた」より

とありますが、ICUから急性期の一般病棟に移った後、回復期病棟に移動するまでの1ヶ月半の間、わたしはまさに「ヤバイ患者」のいる病室でお世話になっていました。

しかもその病室の中でも一番廊下側。ナースステーション目の前のベッド。特等席です笑

病棟でも病室の中でもダントツ「若者」であったにも関わらず。最初の1週間は食事もとれず、3週間は意識も朦朧とし、急性期にいる間はトイレに行くにも必ず看護師さんに車椅子で連れて行ってもらい、ズボンも下着も着脱できない…そんな状況でした。

他の患者さんが入れ替わり立ち替わり、早い人だと翌日には退院していくような急性期病棟で、いつの間にやら一番の古株となり、次に移動した回復期病棟でも一番の古株となり。何人もの入院仲間を見送ってきました。

そんな長い入院生活を乗り越え、退院しましたが、単純に手足が麻痺して動きづらいだけでなく、脳由来だからこそさまざまな障害が今になって表出しています。

「ヤバイ患者」はどこまでいってもやはり「ヤバイ患者」なんだなあ。もちろんわたしよりも重い障害を負っている人もたくさんいますし、大変さは人それぞれですが。

高次脳機能障害という地獄

入院当初、意識も朦朧としたまま、わたしは言葉もまともに喋ることができず、自分の誕生日を知らされてもよく理解ができませんでした。

スマホの暗証番号も忘れ、使い方も分からず。
身体には色んな管がぶら下がって、常に機械音が鳴る中、ベッドで寝たきりの状態。

3週間が経ち、出血が治まり脳の腫れが引いてきた頃、ようやく本格的にリハビリが始まり、最初のうちはPT(理学療法)OT(作業療法)ST(言語聴覚療法)3つ受けていたのですが、テストの結果STは特に問題ないということで早々に卒業となりました。

話しづらさはあったものの、手足の麻痺が大きかったので、そちらに時間を使う方を優先することに。

この時はその判断に間違いはなかったと思います。入院中はさほど困ることもなかったので。しかし、問題は退院後。

この本の第7章『本当の地獄は退院後にあった』にもNHKの集金員とのやり取りが書かれていますが、日常生活ではまさにこんな感じの「お困りごと」が次から次へと起こるのです。

昔から人とのコミュニケーションが大の得意で、何ならわかりにくいことを「わかりやすく伝えること」が特技だったし、加えてそれらを仕事にしていた自分にとって、こんなにつらい現実が待ち受けていたなんて!

しかしながら、病院で行う「テスト」はわたしにとって一番肝心な部分は問題としないのです。不自由さはあるだろうけど、まあ生きていくのに問題はないし、生きていけるよね。という評価なのでしょう。

「大丈夫」という言葉に隠されたリスク

わたしはシングルマザーですが、ありがたいことに両親は健在で近くにおり、当時高校生だった二人の子どもたちの面倒も、母がわたしの代わりに色々とやってくれたおかげで、7ヶ月半を無事乗り越えることができました。

コロナ禍だったので家族の面会も禁止だったし、友達のお見舞いもなかったけど、逆にリハビリに集中できる環境でしたし、入院生活はなんなら楽しかったり笑

リハビリの甲斐あって、退院してからは徐々に家事もするようになり、今はほとんどすべて自分でできるように。通院や通所リハビリ、鍼灸に行ったり美容院に行ったり、近い距離ならば電車やバスにも一人で乗れるようになりました。

だからこの本の中に書いてあるように「何かしてほしいことある?」と改めて聞かれると、「大丈夫」と答えてしまうでしょう。

やろうと思えばできるから。

昔から、人に悩み事を相談されることはあっても、逆に相談することはほとんどなかったし、困ったことがあっても自分でなんとかしてきたし。

子どもの頃から辛くても「辛い」と言えなかったり、「大丈夫?」と聞かれれば「(大丈夫じゃないけど)大丈夫」と答えるのが当たり前。

長女だったので家庭では「頼れるお姉ちゃん」だったし、学校では学級委員をするようなタイプだったし、大学では体育会の主将とか…それが決して嫌だったわけではなく、自分でも当たり前と思っていました。

ただ「見えづらい苦しさ」を抱えた今となっては、もっと「助けて」と躊躇なく言える。そんな人間だったら、どんなにか楽だっただろうと考えることもあります。

全然大丈夫じゃないのに、何が大丈夫じゃないのか、言語化し発話することがもともと苦手な上に、今はとても困難な作業ので。つい言葉を飲み込んでしまうのです。

「察して…」じゃダメなのは分かっているんですが。こればっかりは、ほんと難しいですね。


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