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常にマイノリティにあること#正欲を読んで


朝井リョウ『正欲』を読みました。
元々、朝井リョウの作品は読むたび精神的負荷が強く、自分の中の世の中での生きづらさを言語化して物語ってくれる。
つらつらと自分の身の上話と、今後の生き方について書きたい。

私は異性愛者だし、学歴も履歴書上は浪人した以外はそこまで瑕疵がないような生き方をしているわけだが、その実は学校や社会に溶け込めない生活をしていたので、どこか歪な人格をしている。
やはりいじめや孤独というものは人格を歪ませる。
あの時転校していなければ、あの時中学受験に興味があると言えれば、あの時高校は自分が行きたいところを受けると言えれば、あの時高校を辞める勇気があれば、あの時大学受験に成功してれば、あの時通いの学校はもう無理だと納得してもらえてれば。
傷つく人間関係から逃れて、ちゃんとした人間関係や居場所を作って、繋がりを得られる機会があったんじゃないかなあ。

家族の中で居場所が子ども時代はあったか、と言われると、親は実質的に放置していたようなもので、ご飯を食べて勉強だけしていればいいような家庭であったと思う。
こちらが行きたい進路を否定し、学校で悩んで辞めたい、違うことがしたいと言っても聞き入れることは何もなかった。
結果的に学校を修了させて社会に放り出されても、その大きな海に例えられる社会で生きていくための水槽に入れてもらえない。入ったとしてもすぐ毒を入れられるような人生だった。

どうしても学校というところではみ出てしまう人生だったので、特に仲間はずれにされる状況はトラウマを想起しやすく、気持ちが落ち込んでしまう。
実際、人との関わり方や集団の中での立ち居振る舞い方、身だしなみ、言葉遣い、空気を読むことなどが全くなってなかったので、一言でいえばパジャマで会えるような内の関係の人間関係しか作れないのである。
それは地元の友人であったり、寮生活で1年暮らした友人であったり、仕事の同期であったりする。しかし、親友だと思っていた人物は、こちらの精神が成熟するにつれて、みんな合わなくなって会わなくなった。

履歴書に書ける場所の友人関係があるのが羨ましい。
自分だって部活の同級生とか、ゼミの仲間とかそういう関係で年に一回飲み会があるというような人生がよかった。しかし、どこもお互いに死ねばいいと思うような傷つけ合いをして出ていったし、特に向こうは独りで排除された私のことなどもう忘れているのだろう。

自分はまともではない、どこか人に不安を与える要素が何かある。
同性愛者だとか得体の知れない理解されない性欲があるとか、そういう意味での内的な要因ではなく、何か社会に適合していない外的な要因である。

それは一体なんなのか。ずっと考え続けていた。
見た目がよくないのか、服装がダサいのか、言動が幼いのか、会話のテンポが悪いのか。
なんとか普通に合わせたくて、プロにパーソナルカラーや似合う服を依頼して聞いてみたり、会話においては自分ばかり話さない、悪口は言い過ぎないなど気をつけていくものはやってきた、
しかし、それはあまり意味はない。
おそらく、何もない普通の人間に対しての恐れと、どうせ自分は世の中の仲間に入れてもらえないという諦念、普通をやってこなかったことによる共感性の少なさによるものだと思う。

頑張って社会に馴染もうとやってきた。
自分も普通の人間なんだと。
社会から弾かれたことへの恨みつらみ、無駄なことをしてきたことへの後悔をバネにして公務員をやってきていた。

でも、違うんだな。またマイノリティになってしまった。少なくともフルタイムで残業できる職員とは違う存在になってしまった。

前部署の実務部隊の人たちは別に私のことを嫌ったとかいうよりは、深く関わる機会もないし、他にみんなで仲良くしているからあえて誘う人でもない状態になった。でも結果的には仲間はずれにされた。
そういう状況で所属長みずからがその立場の人間のケアをしていたのだ。私から言わなければ人間関係に困ってるようには見えなかったそうだが、それは私自身も除外されてることに気づいたのが異動が決まって、仲良しグループの皆様が別れを惜しんでいるのを見たからだ。

外的な部分を合わせることはできない。
また、内的な部分=自分らしさみたいなものにも自信がなくなっている。
何が好きで何がこうでと話すことが、もうそんなになくなっている。
人に前向きな会話を提供できるほど人生全く楽しくなかった。
自分を構成するものでプラスのことってなんだろう。

それでも結婚して子どもを持てたこと、についてはプラスなのだろうか。
子どもに会えたことはいい。これはもう人生で1番かけがえのない存在だと思う。無敵の人にならなくて済むかすがいである。
結婚については、夫は社会が必要としなくても、僕があなたを必要としている、と、精神が一番病んでいた頃にかけられた言葉を信じて結婚したが、私が普通になるにつれて夫とは合わないことも出てきた。それについてはお互いに乗り越えている。
しかし、性欲は全く満たされたことはない。お互いの求めるものが全く違う。
この点でも生きづらさが相当にある。自分の持つ本能的な欲求を満たすにはもう不法行為をする以外にない。という意味では正欲に出てくるマイノリティたちと同じかも知れない。

明日、死にたくないと思いながら生きてみたかった。

ここまで色々抱えているわりには1人で立ち直ってきたところもあるのは、この気持ちは強いのだと思う。私の場合は、普通の人間として生きてみたかった、という部分だろうか。

昔は、こんなクソみたいな場所じゃなければ自分は上手くやってたはずだ!という思いで、色んなところから逃げていたけど、今思うと、うまくやってなかった時間のが圧倒的に長いので、実質引きこもりみたいなもんだったんだよな、と感じている。

職場の飲み会に誘ってもらえないような関係で行くなら、もう辞めてしまって集団の中の孤独から逃れたいと思っていたけど、ここでまた社会から隔絶されたら、もっと酷くなりそうだ

私も普通の人たちを恐れず、コミュニケーションをとっていかなければならない。
自分は理解されない側だから、と諦めてしまってる部分もあるけど、少しづつ乗り越えていかなければならないのだろうな。
私自身も周りを一般化しすぎて誰のことも理解できていないのだと思う。
まだ昔の人間関係の方が個人として付き合ってきた。
佳道が親が死んで自殺をしようとする理由、世界と分かり合えない孤独にある中、産まれる前から自分のことを知ってる存在がいなくなったことによって、ついに世界にいられない気持ちになったというのが痛いほどわかる。
親とははっきり言えば今の仕事に就かなければいまも歪みあっていたに違いないが、それでもこの世に確実な居場所がない私にとっては、実家は支えにならざるを得ない。

この世界で生きていくための拠点。
仕事と育児を手放さないでおかないと、訳わからない人間になってしまうのは自明である。
自分の傷をよく見て、痛みを乗り越えながら、拠点を大事にできる人生にしたい。

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