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編み物は間違えても解かない

一年ぐらい前からかぎ編みに挑戦するようになった。ヨーロッパに来てから引っ越しすることも多く、それゆえに生活に必要最低限のものしか持ち運ばなくなったので、娯楽と言えるものというとスマホやパソコン一台でできることばかりになってしまっていた。それに嫌気がさして、これまであまり気が乗らなかった物理的な『モノ』を扱う趣味を始めてみようと思い、手を出したのが、かぎ編みである。

なんでかぎ編みかというと確か中学生か高校生ぐらいの時にやったことがあって、棒編みよりは簡単という風に記憶していたからである(実際は用途が違ってどちらが簡単というわけでもないみたいなのだが)。経験があるとはいえ、最初の段階でつまずいたため何かを作り上げたこともなく、周りに教えてくれる人もいなかったので全く技術は習得しないままであった。

今改めてかぎ編みに挑戦して、最初からもちろんうまくできるわけもなく、何回やってもガタガタで網目の揃っていない汚い編み物が出来上がる。しかし私という人は、妙に完璧主義というか、単純に汚いものは見たくないので、完成しそうになると糸を全部解いてまた最初からやり直してしまう。結局きれいになるまで何回も何回も解いてやり直し、するとほどき過ぎた糸はほつれて汚くなるし、ものすごく気力も体力も使った割には結局何も編み上がっていないことにストレスを感じる日々であった。

昔の自分ならここでもうやめていたのだが、最近はもう少し辛抱強くなってなんだかんだ一ヶ月に一回ぐらいは思い出して、少しずつ少しずつ編み物をやれるようになってきた。本当は毎日か、少なくとも毎週ぐらいやったほうがいいんだろうが、あまりにもイライラするので自分にはこのくらいのペースがちょうどいいんだと気づく。すると意外とかぎ編みの技術も上がってきて、当初と比べるとそれなりに編めるようになってきた。

私は編み図が読めないので、YouTubeなどで勉強しながら編んでいるのだが、最近思うのは最初の方こそ編み間違えても解かずに先へ進むのが大切なのではないかということである。本当に少しの編み間違えなら解いてやり直してもいいと思うのだが、それなりに編んだのに全部ゼロにするのは精神衛生上とても悪い。あれだけ労力をかけたのに、結局手元に残ったのは汚い糸だけである。

同じようなことを自分の博士課程での研究を通して感じていて、最初の頃は研究も完璧にしたく、書いた文章やプログラム(コード)の美しくないところを探しては何回も何回も消しては修正して、結局ものすごく苦労した割には何も出来上がっていないということばかりであった。幸い研究の成果物は物理的産物ではなくデータで保管されていることが多いので、汚くなった糸のようなものを見る必要はなかったが、目の前に何も仕上がっていないのは同じことである。

最近は、編み物を始めても途中で全部やり直したりすることはなくなった。この前は簡単そうなハンドウォーマーを編み始めて、サイズを間違えたし形も相当おかしかったが、とりあえず最後まで完成させてみた。するとなんだろう、こころがすっと軽くなったのである。自分の間違えがたくさん詰まった『汚い編み物』を見ていると、確かに自分は学んでいるし成長しているなぁということに気づかされるのである。

今私は博士課程の最後の大詰めで、博士論文を執筆しているのだが、うまくやろうとすると先ほど書いたように全部解いてしまいたくなるので、結局いつまで経っても疲れるだけで手元には何も残っていない状態になってしまう。わざと間違えるつもりはないけど、間違えてもいいんだという気持ちで編み進める気持ちって何事でも大事なのではないだろうか。