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承認(誰かに認められたい)

例えば、お遊戯が上手にできたお子さんが「よくできましたね~」とほめられる承認です。あるいは、プロ野球の選手がバッターボックスで難しい球をクリーンヒットした時に、それはプロ野球選手として承認されたと思えるでしょう。
 
ただし、具体的に誰かに褒められることをしなくても、ヒットをうった時に自分自身が嬉しくなる。それは野球というゲームの中で、みんなから承認され得る行為を自分はしているという事が分かっているから嬉しくなるわけですね。その証拠に、もしも野球というゲームが、ヒットを打つと失点となり、みんなから非難されるようなものだとしたらヒットを打つと不快になるでしょう。
 
また、自分が今日の出来事を「こんなことがあった、あんなことがあった」と話していて、相手が「そうか、そんなことがあったんだね~」とうなずいていてくれている時に、自分の存在が承認されているような感じがするとか。そういった様々なレベルでの承認です。
 
承認ということを考えて行くにあたって、私たちは大まかに分けて、二種類の承認を求めているように思われます。
 
1つのタイプの承認は、社会とか集団とか一般性の強いところで得られるものです。先ほどの野球の例で言えば、バッティングが上手に出来たとか、音楽家であれば上手な演奏ができたとかですね。ビジネスマンであれば良い商品アイデアを思い付いたとか、良いプレゼンテーションができたとか、自分が作った商品の売上が良かったとか。
 
それらの共通点は何だろうかと考えますと、それは「条件が付いている」ということです。何らかの条件・ルールの中での決まり事があって、その条件を上手く満たしたことによって評価される。満たさないと、非難されたり、排除されたりする。そういったタイプの承認を、私たちは結構強く求めていますから、それを動機に仕事を頑張ったり人前で道徳的に振る舞ったりするものです。
 
しかし、人々に評価されるための条件を満たさないと承認されないということは、なかなかしんどいことです。こういった一般性の高い承認を与えてくれるのは、社会全体とか、職場全体とか、野球界や音楽界などです。因みに音楽に興味がない人からは、どんなに演奏会で上手に演奏したとしても承認されることはないですよね。
 
あるいは、絵画に全く興味のない人や絵の嫌いな人に、上手な絵を見せようが下手な絵を見せようが、どっちにしても承認されないですよね。もはや、絵を描いているという時点で、絵が好きでない人からは承認されません。
 
ですから、何らかの共同体というか、何らかの条件・ルールを共有した人たちの中でこそ、その条件を満たして上手にできたという時に、自分が承認されて価値のある存在なのだと認められるのです。
 
裏を返しますと、それは条件を満たせない時には承認されないということがついて回りますから、仕事が上手くいかない時や、体調が悪くて頑張れない時などは「承認が得られない」という不快感に悩まされがちです。ですから、私たちはそういった条件付きの承認を求める一方で「無条件の承認というものを得られたらいいなあ」と思っていたりするものです。それは先ほどの第三者的な集団的なものというよりはプライベートな関係によって、愛情によって、無条件に承認されたいという、欲求として生じがちなものです。個人「私にとってのあなた」、すなわち「君」という存在から無条件的に承認されたいという気持ちが強いのです。
 
多くの人は、できれば「何かをしたから」とか、「何かを上手にできたから」といった理由で承認されるのではなく、無条件にとにかく「自分が自分である」という理由だけで承認されたいというふうに希望しているのではないでしょうか。「多くの人は・・」なんて、他人事のように澄ましたことを申しましたが、これを述べている当の私自身、心の奥にそうした欲を抱えているが故に「今度こそ・・」と幻想を抱いている恥ずかしい人間です。
 
そして、現代社会における皮肉というものを考えてみると、私たちは周りのある特定個人から承認されたいという気持ちが、昔よりも強くなってきているように思います。何故強くなっているのかについて、社会学的に考察するなんてことをうっかり始めてしまうと手に負えないほど壮大になってしまうので、身近な視点からさわりだけ考えてみたいと思います。
 
昔の社会ですと、集団の中で承認されるためのルールや基準がシンプルで、ごく自然に承認が得られていました。ある特定の価値観とか、ある特定の宗教とか、この共同体ではこうすることが正しいとかが完璧に決まっていて、それをその通りにしていれば「立派です」という承認が確実に得られていました。
 
ヨーロッパですとキリストの価値観ですとか、日本の中でも数十年前までは、女性はこういうふうに生きていれば社会から認められるとか、男はこういうふうに生きていれば生まれてきた意味があるとか、ある水準の学歴でまっとうな仕事をして家庭をもっていればそれはとても立派なことだから、というふうに、ほとんど誰にも納得してもらえるし、承認してもらえるというシステムがありました。
 
故に、こうして社会的に承認されることによって、自分の価値を無意識的に確かめることができていた人たちにとって、承認が足りない分を、プライベートで身近な人たちから承認されることによって補おうと、必死になって求めなくてはいけない理由は現在よりはなかったように思われます。
 
価値観の多様化とか社会の流動性の増加とか、「私たちがこうすれば価値がある」と思っていることが、今の世の中では、あまりにも社会の中が多様化し過ぎていて、「ちゃんと収入があって結婚していて、マイホームが持てていたら、まっとうなのだ。」というような形での承認は、もはや必ずしも成り立たなくなりました。中には、そういう発想の人も生き残っているとは思うのですが、それは最早マイノリティのごく一部の考えという位置付けになっているように感じます。そういうのではなく、何らかの形で自己実現をしなくてはいけないんだ、という考え方のほうが主流になっているのではないかと思います。
 
それでは、どうすることが自己実現なのかということを聞いてみれば100人が100人違う答えを持っているかもしれません。ある人は「ゲームをすることが自己実現だ」「仕事で独創性を出すことが自己実現だ」等々思っていても、他の人は「それは自分にとって大事なことじゃない」と思っているわけですね。あるいは、昔だったら、他の事は全て諦めて子育てに没頭し家の生活のことをきちんとしていたら、それは社会的に素晴らしいという価値観があり、自分で自分の価値を納得・承認できたかもしれないのですが、今は、「いや、そういうのは家庭に埋もれて社会の中で立場が得られないし、平凡で、つまらない」という価値観が広がっているように思います。ですから、せっかく専業主婦になって立派な奥さんになろうと思っていても「もっと社会の中で自己実現した方が良いんじゃないか」という意見が耳に入ってきたりします。
 
すると、自分の価値、やっていることの価値というのを確信できなくなってしまいます。そんな具合に、何をやっていても、自分と違うことをやっている人たちとか、自分と違うことに価値を置いている人たちがいますので、そういう人たちの存在や発言に直面すると、自信が持てなくなる。「本当にこれでいいのか?」と不安になり、承認感覚が脅かされる。私たちは一定のルールに沿って、それなりに評価されて、それなりに承認されていたとしても、こうして不安になってしまうので、それをもって自分を強固に支えることができなくなっているように思います。そうして、自分を支えることが出来なくなった私たちは、何によって自分を支えようとしているのか。私のレベルの低い思考回路ではその解決策が見出せません。
 
ただ1つだけ思いつく方法は、承認(誰かに認められたい、世間に評価されたい)という自分の欲望を捨て去ることです。諦めることです。でも、私はもちろん、人間は承認欲求を持つことが本質のようですから、人間である以上諦めることなんてできないのかもしれません。
 
あるお寺の老師はおっしゃっていました。悟りとは悟れないことを納得することだと。

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