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私という人間の歴史

私はこの世に生まれ、生き、そして死んでいく運命にあるようです。私は死ぬことによって私が存在しなくなってしまうことを恐れてしまいます。私の歴史は、私の死と共に終わります。

  私が死に、私の肉体が朽ちてしまうことは、私や私のまわりの人間にとっては一大事ですが、私を構成している電子や陽子や中性子にとっては、私の生も死も何の意味もありません。

  「私」という存在は、身体を構成している分子の「関係性」に支えられています。世界は大きく、分子は小さい。小さな分子が大きな世界にまき散らされた時、かつてさまざまな関係性の中にからめとられていた分子は世界中に広がっていきます。例えば、かつてクレオパトラの身体を作っていた分子があなたの身体の中に含まれている可能性は十分にあります。もちろん、このことは、クレオパトラとあなたの間に時間を超えてつながりがあることを意味しているのではありません。

 クレオパトラという人間の死によってクレオパトラという人間の肉体、クレオパトラという個体に集まっていた分子の集合体、心を支えていた関係性は解体され、たとえ、ある分子がかつてクレオパトラの身体の中にあったものだとしても、現在ではその分子はクレオパトラとはどんな意味でも関係ありません。その分子は「私はかつてクレオパトラを構成していた分子なんだよ」と自慢したりしません。

  私は生き、死んでいきます。別の言葉で言えば、私の身体を作っている分子は私という関係性のネットワークに絡めとられ、しばらくその中で踊り、やがてその関係性から解放されて世界中に散らばっていきます。

  私が死んで何十億年も経てば、私の身体をつくっていた分子は、新しい星の材料になっていることでしょう。ですが、そのことは、その星の中に私が生きていること、あるいは私の名残が生きていることを意味するものではありません。わたしという関係性は、あくまでも私が死んだときに消えています。私をつくっていた分子は私とは関係ありません。生きて死ぬ。分子、電子、陽子、中性子と私とは関係がない事実は変わりませんが、何かその縁に味わい深いものを感じてしまいます。それは私という関係性の歴史でもあります。

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