見出し画像

「待て!」のできない裸の王様 ~ #勝手にコルクラボ に参加して気付いたこと~

#勝手にコルクラボ  という、コルクラボ発の企画にのっかって、二度ほどエッセイを書かせて頂いた。

お題:あなたが手放したことは?
→「さらば、承認欲求お化けだった私よ」(https://note.mu/adgw_nn/n/neb54473a0d49)

お題:今でも悔やんでいることは?
→「嵐のような後悔と、凪いだ心の自己肯定」(https://note.mu/adgw_nn/n/n0b98a2f166ea)

自分なりに一生懸命考えて書いたつもりだった。
書き上げた当初は、わりとよく書けているとも思った。
けれど何かが違ったのだ。

具体的に言うと(死ぬほど恥ずかしいんだけれど)もっとウケると思った。あんなことやこんなことが起きて、これからめくるめくnoteライフが待っているのだと勘違いしていたのだ。

本当に、思い上がりも甚だしくて穴に埋まりたくなるんだけれど、私は自分がある程度劇的なことを劇的に書ける人間なんじゃあないかと思っていた。
「徒川さんのエッセイ好きだよ」と何度か言われた自負もあった。
自分の書くものに誇りもあった。
だけどいざ形にしてみると、理想と現実のギャップが凄すぎるのだ。もうめまいがするどころの騒ぎではない。

私は「自分の何が『違う』のか」という問いの答えをを求めて #勝手にコルクラボ  タグを使っている方の記事にアクセスし、読み返した。

気付いたことは三つ。

・心地よいと感じる文章はみな柔らかく平易で優しい。
・読んでいると、穴をどんどん掘り進めていって、マントルに近づいている感覚がある。
・穴をどんどん掘り進めていっているので、思考が、書いてあることが連鎖している。幕間や場面の切り替えのようなものがなく、大きな一場面でできている。

対して私の文章は、

・なんかかっこよく書こうとしている。
・穴を掘り進めているというよりは、掘り当てた鉱石をどんと見せている。徐々に核心に近づいているという感じがない。
・したがって連続性がなく、場面の切り替えを多用している。

自分で抱いたのはこんな印象だ。


・なんかかっこよく書こうとしている。

これに関しては、普段小説を書いている時に、音や響きをみて全体の空気を作っていくことを重視しているからだと思う。
でも、エッセイでそれをやって、なおかつ実が伴っていなかったらそれはただの上滑りだ。

難しい言葉でそれらしく語るより、わかりやすい言葉でわかりやすく伝える方がよっぽど難しい。

私はほんの数日前の自分が、ふんぞりかえってええかっこしている裸の王様みたいに思えてすごく恥ずかしくなった。


そしてあとの二つに書いた「穴を掘り進めていく」感覚。
それこそが私が『自分のエッセイに足りないと思うもの』だ。

自分の深いところまで潜っていって、核心に迫るという連続性。

私は今のところ、お題を聞いて、ぱっと思いついたネタをPCの前でこねくりまわしながらだらだらと書いている。
けれど、その思考こねくりまわし(そして書いちゃ消しだらだら)が決定的に足りないのだ。
思いつき、一時のフィーリングだけでぱーっと書いていては、本当に劇的な文章は書けない。

私は自分の本分は小説を書くことだと思っているので、小説が「上滑り」になっていなければいいっちゃいいのかもしれないのだけれど、それでもやはり人の心を打つものを書きたいと思うのは当たり前のことだ。

だから私は、もっと自分に深く潜る術を身に着けようと思う。
長く息が続くように訓練をしたり、覆いかぶさっている分厚い皮をひん剝いたりしなければならない。

とはいえ、思いついたら書かずにはいられないせっかちな私がひとまず覚えなくてはならないのは「待て!」「思考しろ!」だろう。

これから躾を開始して果たしてうまくいくのかはわからないけれど、これを読んでいる方がこれからの過程を、そっと見守ってくれたら幸いです。


2018.08.15  徒川 ニナ

「ちょっと応援してやろうかな」と思って頂けたのなら、是非サポートを!あだがわの心の糧となります!