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「コロナ後」という戦後は、もしかしたらこれまでとは別の世界なのかもしれない

コロナ後は、ある種の戦後である。

こんなことを言おうものなら、実際に戦争を体験された方や、今もなおその渦中にいらっしゃる方々からお叱りをうけそうだが、これはあくまでも私の表象世界(イメージ)の話なのでお許しいただきたい。

コロナがインフルエンザなどと同じ5類感染症に格下げされたのが昨年5月。そして秋頃からは、コロナはその厄災としてのポジションを社会的に(ほぼ完全に)葬られたような気がする。

もちろん、いまだに私の周りではコロナに感染している人は随時出ているし、そういう人たちの話を聞いていると後遺症が残ったり、体調不良が長く続いていたりして大変そうには見える。

しかし、それでももうコロナが社会的に騒がれることはなくなった。私は新聞を読まないしテレビも観ないが、コロナはネットのニュースでも検索しないと出てこなくなった。

コロナにかかったのね。それは大変だったね。お大事に。今はもうそれで終わるのだ。


大袈裟に聞こえるかもしれないが
コロナが蔓延した3年間は目に見えない戦中だった
と、私は思っている。

われわれは暑い夏でもマスクを着用し、ワクチンを4回も5回も打ち、手洗い・うがいやアルコール消毒を習慣化させることでその感染から身を守ってきたからだ。それはまるで、目に見えない爆撃から身を守るかのようだった。

私は今でもその習慣を続けているが、都内で電車に乗っていても今では半数以上の人たちがすでにマスクをつけていない。やはりコロナという戦時状態はすでに終わりを告げたのだ。


コロナによって最も大きな被害を受けたように見えるのは、小さな飲食店だ。先日大阪に出張した時、コロナ前に私がよく通っていた飲食店はほとんどなくなっていた。 

ホームポジションである東京・神奈川では(私に関していえば)そこまでの変化はなかったが、友達や知り合いに聞くとやはり「行きつけのお店がずいぶんなくなった」と、みな口をそろえるように言っていた。それ以外にも人知れず営業を断念せざるをえなかった企業や商店も数多くあったことだろう。


それでは、コロナが影響を及ぼしたのは経済的側面だけだったのだろうか?


コロナ禍に大企業を中心に取り入れられたテレワーク(あるいはリモートワーク)は、日本では定着しなかったとよく言われる。

私の勤める会社(出版社)ではそもそもコロナ禍でもテレワークが導入されることはなかったが、それでもコロナ最盛期の頃は朝の通勤電車に座れることもあるくらい乗客が減って喜んでいたもので、あの頃はそれくらいテレワークを推進した企業が多かったということだろう。

それが今では完全に元に戻っている。
われわれは元の日常を取り戻したのだという声を、近頃はよく聞くようになった。私も最初はそのように思っていた。われわれの生活は元に(コロナ前に)戻ったのだと。


しかし、それは違うのではないか?という違和感を、私は今感じ始めている。


具体的にどこがどう違うのか?と言われれば、ごめんなさい。
現時点ではまだそれをはっきりと言語化することはできない。

しかし、コロナ前とは何かが違う。 
そう、「何か」が違うのだ。

それは村上春樹さんの小説風に言うならば、ここは同じ世界だと思っていたのに、ふと空を見上げたら月が2つあったみたいな、そんな感覚に近い違和感である。

ひょっとしたらコロナは、経済的な側面だけではなくもっと別の影響を(この社会に変化を加える何かを)われわれの世界に産み落としていったのではなかろうかと、私は思うのだ。


コロナ前という戦前の世界と、コロナ後という戦後の世界は、同じ世界ではない。

これが現時点での私の見解である。
もちろんエビデンスのようなものは何もなく

その違いは時間をかけて(おそらく数年後くらいに)、可視化されるものとして(あるいは言語化されるものとして)現れてくるのではなかろうかと。

私は今何の根拠もなく、そう思っている。

息を潜めてその姿をひた隠しにしているもう一つの(コロナ前とは別の)世界が、いずれわれわれの前に立ち現れてくるのではなかろうかと。











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