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ソ連の有人月飛行計画

 最近、中国の神舟宇宙船の軌道モジュールらしき物体が大気圏に再突入してその火球が九州近辺で観測されたという話題と、アメリカで撃墜された中国の偵察気球に関連してかつてソ連領内で撃墜された米軍の偵察機U-2に搭載されていたカメラのフィルムがソ連の月探査機に流用されたという話題がタイムラインに流れてきました。
 それで思い出したのですが、そういえば昔ソ連の有人月探査計画に関する本を読んだときにけっこう面白かったのですが、日本語ではあまり見かけないなと思いせっかくなので記憶に頼ってまとめてみることにしました。

 なお、宇宙船の「〇〇何号」という名前の付け方は米ソでかなり違っていて、アメリカの場合はプロジェクトごとに計画の時点で飛行が有人か無人かにかかわらず通し番号をミッションごとにつけ、その後はその番号を踏襲するため実際の飛行順と番号が逆転するということも起きたりします(例えばジェミニ7号はジェミニ6号より先に打ち上げられました)。しかしソ連では実際に打ち上げられて成功したときだけ番号を与えられるのが常で、失敗したミッションはそのままなかったことにされます。無人機を使った試験飛行なども固有の名称と番号を与えられず「コスモスシリーズ」と呼ばれる多種多様な衛星や探査機が与えられる通し番号の中に押し込められます。例えば LK 月着陸船の最初の無人による試験飛行は「コスモス379号 Kosmos 379」と呼ばれました。コスモスシリーズは今も続いており番号は2500を超えています。

チーフデザイナー、コロリョフ

 コロリョフ Sergei Korolev (1906-1966) は航空工学を学んだエンジニアだったが、スターリンの大粛清に遭いシベリアに国内流刑となっていた。第二次大戦末期、V2ロケットの調査のため軍に動員されてドイツに入り残されていた部品や資料を本国に持ち帰った。
 コロリョフはまずV2のコピーであるR-1ロケットを生産することからはじめ、ロシア南部カプスチンヤールで実験を繰り返しながら拡大改良を続けていた。1957年までにコロリョフは世界初のICBMとなるR-7ロケットを完成させる。そしてこの年の10月、R-7を使ってやはり世界初の人工衛星スプートニク1号 Sputnik 1を中央アジア・カザフスタンに建設されたバイコヌール基地から打ち上げた。
 これはソ連の核兵器がICBMでアメリカ本国まで届き得ることを意味する。軍事技術ではソ連に対して圧倒的優位にあると信じきっていたアメリカはパニックに陥る。いわゆるスプートニク・ショックと呼ばれるものでソ連とアメリカのあいだのミサイル技術の格差、ミサイル・ギャップが問題とされた。アメリカは翌1958年に人工衛星を打ち上げて追い上げをはかる。この年の7月にはNASAが創設されて体制を一元化した。
 しかしコロリョフは動物(犬)を積んだ人工衛星を打ち上げ、月に探査機を命中させ、あるいは月の裏面の写真を撮影して地球に電送するなどの成果を次々にあげ、アメリカに追いつくすきを与えなかった。アメリカは人間を宇宙に送るマーキュリー計画を立ち上げたが、コロリョフは1961年4月に宇宙飛行士ガガーリン Yuri Gagarin (1934-1968) を乗せたボストーク1号 Vostok 1 を打ち上げ、地球を一周して無事帰還させた。アメリカは5月にシェパード Alan Shepard (1923-1998) を乗せたマーキュリー3号 Mercury 3 を打ち上げるもわずか15分間の弾道飛行にとどまり、地球を周回する軌道飛行に成功するのは翌1962年になる。

ガガーリン(左)とコロリョフ(右)

有人月飛行計画のはじまり

 シェパードの飛行から20日後の1961年5月25日、アメリカのケネディ大統領 John F. Kennedy (1917-1963) は議会で演説し1960年代のうちに人間を月に送り込み無事に帰還させると公約する。アポロ計画のはじまりである。ケネディは月飛行の意義を本当に理解していたわけではなく、ただわかりやすく世論の注目を得られるものであれば実のところ何でもよかったといわれるが、結果としてアメリカの威信を大いに高めることになった。ケネディはそれを見届けることなく1963年ダラスで暗殺される。
 だがマーキュリー計画とアポロ計画では必要とされる技術レベルに大きな差があった。特に問題となったのが軌道変更とランデブー、ドッキング、船外活動(宇宙遊泳)、長期間の宇宙滞在である。こうした技術課題を解決するためにジェミニ計画が立ち上げられ、地球軌道上で技術検証を行なうことになる。1965年から翌年にかけ10回の有人飛行が行なわれ、万事順調というわけではなかったが最終的には所期の目標をすべて達成することができ、アポロ計画にむけ大きく前進した。

 ソ連では国家をあげての有人月飛行計画は存在しなかったが、コロリョフ自身は以前からこうした構想を抱いており、またボストーク宇宙船がマーキュリー宇宙船と同じく軌道変更能力をもたず長期飛行できないことを誰よりもよくわかっていた。そこでコロリョフはのちにソユーズ Soyuz と名付けられることになるまったく新しい宇宙船の設計にとりかかる。ソユーズ宇宙船は将来的な月飛行も考慮され、技術試験の色合いが強いジェミニを超える、のちのアポロ宇宙船に相当するものだった。
 しかしソ連指導部はアメリカのジェミニ宇宙船が複数の宇宙飛行士を搭乗させることができ(2人乗り)、宇宙遊泳も計画されていることを知って早急に対抗することを命じた。コロリョフはソユーズの設計作業を一時中断しボストークの改造にとりかかる。まず、本来1人乗りであるボストークに無理矢理シートを詰め込み3人の飛行士を搭乗させて打ち上げボスホート1号 Voskhod 1 と称した。容積に余裕がなかったので搭乗した飛行士は密閉式の宇宙服ではなく簡易な船内服を着用していたが、その写真をみたアメリカはソ連宇宙船の信頼性が高い証拠と勝手に誤解した。さらに折り畳み式のエアロックを搭載したボスホート2号 Voskhod 2 を打ち上げる。レオノフ飛行士 Aleksei Leonov (1934-2019) は軌道上で展開されたエアロックを通って世界初となる12分間の宇宙遊泳を実施した。ジェミニ4号 Gemini 4 でアメリカのホワイト飛行士 Ed White (1930-1967) が20分の宇宙遊泳を行なったのはその1月半後のことだった。
 一見、アメリカはソ連にまたも先を越されたかのように見えたがそれはあくまで表面上のことで、アメリカがジェミニ宇宙船を使って着々とノウハウを習得しているのに対しソ連はまだソユーズ宇宙船の実機も製作できていない状態で、実態としてはすでに逆転されていた。それでもソユーズ宇宙船が完成すれば退勢を挽回できる可能性があったが、その矢先の1966年1月4日、コロリョフが急死する。ごく簡単な外科手術だったはずなのに麻酔から目覚めることなく息をひきとってしまったのだ。ソ連の有人月飛行計画は強力な推進者を失った。

アポロとソユーズ

 コロリョフは当初R-7の発展バージョンであるソユーズ・ロケット(宇宙船と同じ名称で紛らわしいが)でふたつの宇宙船を別々に打ち上げ、地球軌道上でドッキングさせた上で月に向かうという構想を持っていたが、やがてこれを放棄し新開発の大型ロケットで必要な装備を一度に月に送り込むこととした。
 この考え方はアポロ計画と基本的に同一である。アポロ宇宙船は3人の宇宙飛行士が搭乗する司令船 Command Module CM、電池や軌道変更用のエンジンなどを備えた支援船 Service Module SM、月着陸船 Lunar Module LM で構成されている。これを月周回軌道に送り込み、3人のうち2人が月着陸船で月面まで往復、また司令船に戻って地球に帰還する(不要になった月着陸船は投棄)。

アポロ計画の飛行プロファイル

 アポロ計画が巨大なサターンVロケットを必要としたように、ソ連も巨大なN1ロケットを計画した。しかしソ連はサターンVロケットに搭載されたF-1エンジンのような強力なエンジンを開発できなかった。サターンVが一段目に推力670トンのF-1エンジンを5基使用したのに対し、ほぼ同大のN1ロケットは一段目にNK15エンジンを30基使用した。NK15は、発展形のNK33がのちにアメリカ・オービタルサイエンス社のアルテミス・ロケットに採用されたくらいで優秀なエンジンではあったが、30基ものエンジンを同期させるのは容易ではなかった。コロリョフを失ったこともあって開発は難航した。

同縮尺のサターンV(左)とN1(右)。
あいだに人間が立っている。

 ソユーズ宇宙船は3モジュール構成になっており、上から軌道モジュール Orbital Module、帰還モジュール Descent Module、推進モジュール Service Module と呼ばれる。軌道モジュールと帰還モジュールは与圧されており居住空間となる。地上に帰還するのは帰還モジュールだけで、宇宙飛行士は打ち上げ時と帰還時は帰還モジュールに搭乗する。月着陸飛行では搭乗する宇宙飛行士は2人である。推進モジュールにはアポロ宇宙船の支援船と同様に生命維持に必要な機器やエンジンなどが搭載されている。

同縮尺のアポロ宇宙船(上、司令船と支援船)とソユーズ宇宙船(下)。


 打ち上げ時には最上部に緊急脱出ロケット、ついでソユーズ宇宙船(軌道モジュール、帰還モジュール、推進モジュール)、月着陸船 LK、ブロックD(N1ロケット第五段目)、ブロックG(第四段目)、ブロックV(第三段目)、ブロックB(第二段目)、ブロックA(第一段目)という構成となる。地球軌道から月遷移軌道への投入はブロックGの噴射で行ない、ブロックD以上が月に向かう(緊急脱出ロケットは打ち上げ中、必要がなくなったタイミングで投棄される。これはアポロも同じ)。

月着陸船 LK

 月に接近するとブロックDを逆噴射して月周回軌道に入る。宇宙飛行士のうち1人が宇宙服を着て軌道モジュールのハッチから船外に出、帰還モジュールと推進モジュールの外側をつたって月着陸船 LK に移乗する。その後 LKはブロックDを連結したままソユーズ宇宙船から切り離され、ブロックDは再度の逆噴射で減速し月表面に下降をはじめる。役目を終えたブロックDは投棄され、単独となった LK は自身のエンジンを噴射しながら降下を制御し月面に着陸する。宇宙飛行士は月面での活動を終えると LK にもどり下段部を発射台がわりにして上段部のみが宇宙飛行士を乗せて上昇する(この仕組みはアポロの月着陸船とほぼ同じ)。ソユーズ宇宙船とランデブーしてドッキングすると、また船外を経由して LK からソユーズ宇宙船に移乗し、LK は投棄される。推進モジュールのエンジンを噴射して地球にむかい、大気圏再突入直前に軌道モジュールと推進モジュールは分離され、帰還モジュールがカザフスタンの草原地帯に着陸する。

ソ連の有人月着陸飛行プロファイル

 この手順でもっとも批判を呼びそうなのはソユーズ宇宙船から LK に移乗するのに船外活動を要する点であろう。アポロ宇宙船では司令船と月着陸船は直接連結されていて移乗するには単にハッチをくぐればいい。ソ連が採用した方法は一見無用なリスクを負っているように見える。しかし実のところ、打ち上げの段階では最上部に飛行士が搭乗し、その直下に支援船または推進モジュール、さらにその下に月着陸船という構成はアポロもソユーズもまったく同じなのである。これは打ち上げ時に異常があった場合に宇宙飛行士を救う緊急脱出ロケットが最上部に置かれていることによる。アポロ宇宙船では打ち上げ後、月に向かっている途中で司令船・支援船がいったん切り離され、向きを反転した上で最終段上部に搭載されている月着陸船にドッキングして引き出すという作業が必要になる。ソ連方式ではこのドッキング作業がひとつ不要になるためそれだけリスクが低いとも言え、どちらの方式が優れているとは一概には言えない。

ゾンド計画

 しかし既述の通りN1の開発は難航した。このままではアメリカに先を越されると焦ったのか、既存の月着陸計画と並行して月を周回するだけで着陸までは行なわない、有人月周回をめざすゾンド Zond 計画がはじめられた。打ち上げロケットには当時ソ連でもっとも強力なプロトン・ロケット UR-500 が採用された。プロトンはコロリョフのライバルであったチェロメイ Vladimir Chelomei (1914-1984) が開発したものだったが背に腹は変えられなかったのである。LKやブロックDだけではなく軌道モジュールも重量軽減のため省略された。2人の宇宙飛行士は一週間の飛行期間中さほど広くない帰還モジュールに閉じ込められることになる。

ゾンド宇宙船

 幸いなことに(ソ連にとってだが)1967年1月27日、打ち上げリハーサルを行なっていたアポロ1号 Apollo 1 の船内で火災が発生して3人の宇宙飛行士が焼死するという事故が起こり、アポロ宇宙船の船内艤装の難燃化など火災に対する安全性について再検討と対応が必要になった。しかしソ連も4月23日に初めて打ち上げたソユーズ1号 Soyuz 1 で不具合が多発し、緊急帰還を試みるも減速パラシュートが正常に開かず地面に叩きつけられて搭乗していたコマロフ飛行士 Vladimir Komarov (1927-1967) が死亡した。米ソ双方が期せずして同時に足踏みを余儀なくされる。
 この間、3月と4月にプロトンによりゾンド宇宙船の試験機が無人で打ち上げられた。3月の地球軌道上での試験は正常だったが、4月の試験では月にむかうための噴射が始動せず失敗した。9月と11月には再度月をめざしたが、いずれもロケットの問題で打ち上げに失敗した。ただし緊急脱出ロケットが機能してゾンド宇宙船の帰還モジュールは無事に回収されている。1968年3月に打ち上げられたゾンド4号 Zond 4 は初めて月を周回して地球にもどってきたが最後の再突入で軌道修正に失敗、予定の進路を大きく外れたため他国に回収されることをおそれて自爆させた。4月にはまた打ち上げに失敗、7月には打ち上げ準備中に爆発事故を起こして犠牲者が出るなど安定しない状態が続いた。

プロトン・ロケット

 アポロの打ち上げ再開も近いとみられた9月に打ち上げられたゾンド5号 Zond 5 は無事に月を周回したもののまたも最終段階で進路を外れ数千キロ離れたインド洋に着水、ソ連軍艦に回収された。カプセルに搭載されていた亀などの動物が生きて回収できたことから当局は成功と発表したが、まだとても人間を乗せられるレベルに達していないことは明らかだった。
 10月になるとアメリカはアポロ7号 Apollo 7 で有人飛行を再開、つづいて12月にはアポロ8号 Apollo 8 で月を周回して帰還した。ゾンド計画でめざした有人月周回はアメリカに先を越されてしまったのである。ほぼ時を同じくして10月にソユーズ宇宙船の有人打ち上げを再開したがめざしたドッキングに失敗、年をまたいだ1969年にようやく成功した。その前、1968年11月にはゾンド6号 Zond 6 が月を周回して今度は最終誘導にも成功し、カザフスタンの着地点にむかったが最後の最後で減速パラシュートが開かず地面に叩きつけられて破壊された。

競争の決着

 ケネディが公約した「1960年代のうちに」という期限まで残り1年となり、アメリカは打ち上げペースをさらに加速した。3月にははじめてフル構成のアポロ宇宙船をサターンVで打ち上げ、開発が遅れていた月着陸船の試験を地球軌道上で行なった。5月には同じ構成で今度は月周回飛行を行なった。月周回軌道上で月着陸船を単独飛行させ月面まで15kmまで接近して「月着陸のリハーサル」と呼ばれた。
 ソ連は1月に再度ゾンドを打ち上げたが2段目が過早に燃焼終了してしまい指令爆破された。ようやくN1ロケットの試験打ち上げができる段階にこぎつけたソ連は2月、ひとまずゾンド宇宙船を搭載して月軌道への投入をめざしたが打ち上げ66秒後にエンジンが爆発して失敗した。7月3日、再びゾンド宇宙船を搭載してN1ロケットが打ち上げられたが高度180mですべてのエンジンが停止しロケットはそのまま落下して爆発、発射台を破壊した。エンジン制御システム KORD のアルゴリズムが不適切だったと考えられている。その11日後、アポロ11号 Apollo 11 が最初の人類月着陸を目指して打ち上げられた。アメリカはアポロ11号が失敗した場合に備えて年内にあと2回打ち上げを行なう予定だったが、すでに公約を果たした以上急ぐ必要もなく11月にもう一度月着陸を行なうにとどまった。
 ソ連は8月にプロトンで無人のゾンド7号 Zond 7 を打ち上げ、月を周回して写真撮影を行ない正常に大気圏に再突入して予定範囲内に軟着陸するという初めての完全な成功をみたが、ほんの1月前に有人月着陸の偉業を成し遂げたアポロ11号と比べるとその成果は大きく見劣りした。
 翌1970年、アメリカは4月にアポロ13号 Apollo 13 を打ち上げたが着陸を断念して帰還した。結局この年アポロによる月着陸は行われなかった。一方でソ連は10月にプロトンでゾンド8号 Zond 8 を打ち上げたがまたも再突入で姿勢制御に失敗しインド洋に着水、回収された。それでも搭載された動物が無事であることは確認でき、次はいよいよ実際に飛行士を搭乗させての打ち上げを予定していたが、ソ連指導部はいまさら月着陸でもない周回飛行を成功させても意義に乏しいとしてゾンド計画の中止を命じた。

最後の努力

 もはや有人月周回も有人月着陸もアメリカに先を越されてしまったのだが、せめてということか月着陸計画はなお継続された。1970年11月にはソユーズ・ロケットで LK 月着陸船を地球軌道に打ち上げ軌道変更などを試験した。LK の試験飛行はさらに翌年2月、8月と都合3回行なわれたがいずれも成功裡に終わった。さらに12月には月着陸向けのソユーズ宇宙船のプロトタイプの試験飛行がプロトン・ロケットを使って行なわれ、これらの試験をもって月着陸に用いられる宇宙船はいちおう実用化に達したと判断された。残る問題は打ち上げロケットN1だった。
 1971年6月26日、ダミーのソユーズ宇宙船とダミーの LK 月着陸船を搭載したN1ロケットがバイコヌール基地から打ち上げられた。打ち上げ後まもなく予期しない乱気流によって飛行姿勢が大きく乱れ、制御可能な範囲を超えたと判断したコンピュータはエンジンの停止信号を送信した。しかし前回の事故をうけて KORD は発射後50秒間エンジン停止信号を受け付けないよう改修されていた。姿勢を乱したままエンジンは燃焼を続けさらに姿勢が乱れるという悪循環に陥り、想定外の負荷をうけて二段目と三段目の接合部が破断した。分解したロケットは草原に落下し深さ15mのクレーターを作った。
 1年半後の1972年11月23日、改修を終えたN1ロケットが今度は本物のソユーズ宇宙船と、こちらは相変わらずダミーの LK 月着陸船を搭載して打ち上げられた。機体の姿勢やデータを検知するセンサーの設置箇所を20倍近く増やすという徹底した改善が功を奏したのか順調に上昇していたN1ロケットだったが発射90秒後に破滅がやってきた。加速度が大きくなりすぎないようにと30基のエンジンのうち中央の6基がこのタイミングで停止されることになっていた。突然推力が減少したショックで発生した配管内の衝撃波によって燃料配管が破損して内部の燃料が流出、まだ高温だったエンジンに触れて発火し爆発した。ロケットは分解して落下していった。緊急脱出ロケットが作動して搭載されていたソユーズ宇宙船は無事に回収された。N1ロケットが90秒以上飛行したのは今回が初めてで、一部のエンジンを途中で停止した時に何が起きるのかは試験できていなかったのである。
 当初20号まで計画されていたアポロによる月着陸だったが、ベトナム戦争が泥沼に陥っていたこともあり1972年いっぱいの17号までで打ち切られることになった。世界の関心が薄れつつある中でこれ以上計画を続ける意味は見出せず、1974年にN1計画は正式にキャンセルされる。コロリョフの後継者として計画を統括してきたミーシン Vasily Mishin (1917-2001) は更迭され、コロリョフのライバルだったグルシコ Valentin Glushko (1908-1989) が指揮する設計局に事実上吸収された。ソ連の有人宇宙開発は地球軌道上での長期滞在に重点をシフトした。プロトン・ロケットは宇宙ステーション本体の打ち上げに使用され、地上と宇宙ステーションの往復にはソユーズ宇宙船が用いられた。いずれも改良を続けながら今日なお使われている(R-7の系譜を引き継ぐソユーズ・ロケットも今なお使用されているにとどまらず累積打ち上げ回数1500回を超え世界のどのロケットよりも多い)。その一方でLK は博物館に送られ、N1の5号機に使用する予定だったNK33エンジンは倉庫にしまいこまれた。冷戦終結を経てNK33が倉庫から運び出され、オーバーホールの上で実燃焼試験の結果アメリカのベンチャー企業が自社開発の打ち上げロケットのメインエンジンに採用したのは2010年のことだが、この話はここまでとする。

おわりに

 この文章を書き始めたきっかけは冒頭で書いた通りなのですが、書きながら思ったのは三菱重工が旅客機開発を断念して撤退するという報道でした。MSJ計画(当初はMRJ)がはじまったときから、うまくいくことを願いながらも心のどこかでずっと危ぶんでいたのはソ連の月飛行計画の失敗を知っていたからかもしれません。
 しかしソ連の有人宇宙飛行は失敗のまま終わりませんでした。宇宙ステーションに注力した結果、国際宇宙ステーションのコアモジュールを担当し、ステーションへの往復にはソユーズ宇宙船が使用されるほど存在感を発揮することができました。冷戦後の経済危機の時代にあってもその価値は国際的に高く評価され必要とされてきたのです。
 2014年のクリミア併合以後、日本を含む欧米とロシアの宇宙開発分野での協力関係には黄信号が灯り、昨2022年のウクライナ全面侵攻でさらに悪化したのですが完全に断絶するには至っていません。そこにはロシアの協力なしには国際宇宙ステーションは維持できない現実があるからです。
 日本もなんらかの分野でそうした強みをもたなければいけません。MSJの経験が何らかの形で活用されていずれ花開くことを願ってやみません。

 これもはじめに書いたことなのですが、今回はほぼ記憶に頼っており細かいデータや事実関係だけウィキペディアで確認するという形をとっている関係で厳密な意味での参考文献というのはありません。しかし昔自分が読んで参考になったという本をいくつか挙げておきます。

 なお画像はウィキペディアから引用しました。

 ではもし次の機会がありましたらまたお会いしましょう。

(カバー画像はアポロ8号が月周回軌道から撮影した月面越しの地球。「アポロ8号に乗っている3人はこの写真に写っていない唯一の人類である」)

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