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イスラームの世界観と共存の可能性

中田考著『イスラーム学』の「総論 タウヒードとカリフ制」を参考にイスラームの世界観について説明していきたい。
中田考氏はエジプトの大学でイスラーム法について学んだ、日本人で数少ないイスラーム法学者(ウラマー)である。近年イスラームについて解説する日本語の本は驚くほど増えたが、ムスリムとして正式にイスラームの教義を学んだ法学者により日本語を母語とする者が読める形式で書かれた本はまだ少ない。
それ故にイスラームについてムスリムでないものが「これこそが本当のイスラームだ。あれは違う」と互いに言い合って、何が本当のイスラームなのか誰も理解しないまま収拾つかなくなっている。
中田考氏は日本人のウラマーとして、良くも悪くも日本人に忖度しないイスラームの教義のありのままを伝えることができる数少ない人材である。日本人であるから日本人の感覚とムスリムの感覚の違いを日本人にも分かる言葉で伝えることができるし、外国人ムスリムとは違って客人ではないので日本人に遠慮してイスラームの教えを捻じ曲げるようなことはせず、イスラームの教義を不純物が少ない状態で伝えている。
特に『イスラーム学』に収められている「総論 タウヒードとカリフ制」ではイスラームの基本原則について純度の高い本質的な議論が展開されている。教科書に書かれている「アッラーの他に神はない」とは具体的に何を言っているのか、どのような教えなのか知りたい人はぜひ読んでみてほしい。日本人の感覚だとその単純な一文ですら理解できていないのが分かるのだ。私は大学でイスラームについて多少学んできたが、中田考氏の論考を読むまで正確な理解からは遠かったことに気が付いた。自身の勉強も兼ねてこのnoteでイスラームの世界観について解説していきたい。
1〜6までは著者中田考氏の論考のまとめであるが、7と8は筆者である私の見解及び感想である。かなり長いが、読んでいただけたら幸いである。

1.イスラームの基本理念と末法の世

イスラームの基本理論は「アッラーの他に神はなし」と「ムハンマドはその使徒なり」の2つのテーゼから成り立っており、両方とも信仰告白として全てのムスリムが共有している。第一原理「アッラーの他に神はなし」をタウヒード、神の唯一性と言う。イスラームの教義は神は唯一であり、信徒は唯一の神を崇拝することを求められている。

また、論稿の初頭で著者はイスラームの独自の歴史観について触れている。著者によると、イスラーム的に現代は末法の世であるとされている。しかしムスリムは末法を自覚せず、欧州植民地の遺産である国民国家に従い、カリフ制再興というムスリムの義務を怠り、「偶像崇拝」に手を染めているというのが著者の主張である。
唯一神の崇拝の他に、この末法の世という歴史認識とカリフ制の必要性がイスラームを理解する上で必要となる。

2.神の唯一性と「崇拝」

日本語において神とは超自然的で不可思議な存在という意味であるが、アラビア語における神(ilah)とは「崇拝される対象」というものだ。では崇拝とはどういうことか。
預言者ムハンマドは崇拝(ibadah)について、単なる礼拝だけでなく、禁止(ハラーム)と許可(ハラール)において従うことだと教えている。つまり、「唯一の神を崇拝する」とは「唯一の神が定めた禁止と許可のリストに従って生活する」ということになる。
「唯一の神を崇拝する」という単純な一文でさえ、日本語の感覚では誤解が生じてしまうのだ。教科書を読めば知識としては身につくが、具体的な中身はアラビア語でイスラームの教義を体系的に学んだ人の書いたものを読まなければ誤解してしまう恐れがある。

神が唯一であり、唯一の神を崇拝すべきという定理から論理的に導かれることは、唯一神だけに禁止と許可のリストを決定する権限があるということである。唯一神が定めた禁止と許可について従って生きることが唯一神に対する崇拝である。また、キリスト教やユダヤ教については、聖職者や律法学者が定めた禁止と許可に従っており、神の定めた禁止と許可を捻じ曲げて、信徒を多神崇拝、偶像崇拝に導いていると批判している。

3.イスラームと政教分離

現代社会では政教分離の理念のもとで宗教は内心の問題に矮小化されているが、イスラームは人間の行為のすべてを唯一神が示した禁止と許可のリストに結び付ける、言わば「政教一致の宗教」である。
イスラームの理屈から言えば、政教分離の理念は唯一神が示した禁止と許可のリスト(シャリーア、イスラーム法)以外に、国家が信徒に対して従うべき禁止と許可のリスト(世俗国家の法律)を強要するものに他ならない。国家の示した禁止と許可のリストに従い、神の教えを曲げることは多神崇拝、偶像崇拝と言うことができる。また、そもそもイスラームを内心の信仰の問題に矮小化してその他の宗教と同列に扱うこと自体が神の唯一性に反している。神は唯一であり、他の神を崇拝することは禁じられているので、イスラームの神と他宗教の神を同列に扱うこと自体が背教的行為なのである。

4.「偶像崇拝」をするムスリムたち

現代は世界中が領域国民国家システムに組み込まれた時代であり、国によって濃淡はあるが、ナショナリズムやデモクラシー、政教分離などのイデオロギーが世界を覆い尽くした時代である。
それはイスラーム世界ですら例外ではない。イスラーム法が支配する国はムスリムが支配的な国でも存在せず、よくてせいぜいイスラームは「配慮、優遇されるべき宗教」としての地位でしかない。どの国も世俗国家なのである。
現代のムスリムはたとえムスリムを自称していても、彼らは世俗国家の決めた禁止と許可のリストに従っており、イスラームの教えは個人の趣味の問題にまで堕落している。彼らは唯一神の啓示を蔑ろにして、世俗国家に対する偶像崇拝を行っているのだ。
著者は現代のムスリムは儀礼、食物規定、ドレスコードのような「個人の趣味の問題」しか神の教えを守っておらず、社会、政治、経済においてはむしろ世俗国家を「崇拝」しており、彼らの実態はイスラームの第一原理である神の唯一性からかけ離れている、イスラームを知るために参照するに値しないと喝破している。

5.イスラームの下降史観

現代におけるムスリムは多かれ少なかれ偶像崇拝、多神崇拝に陥っており堕落していると著者は主張している。一方でムスリムの信徒数自体は増え続けており、今後半世紀で世界最多の宗教になる可能性が高い。では数ばかり増えるだけでイスラームの教えは偽物なのだろうか。
著者によるとムスリムのほとんどが堕落していることと、ムスリムが増え続けていることはイスラームの教えと矛盾していないし、むしろイスラーム的世界認識の正確さを補強するものである。なぜならイスラームはある種の下降史観を持った宗教であり、最善のムハンマドの時代からムスリムは堕落し続けて終末に至る。100年ごとにイスラームを再興する者を遣わすが、局所的にイスラームが回復しても世界の終わりに至るまで堕落し続けるのがイスラームの世界観なのだ。

「最善の世代は我が時代である。その次はそれに続く時代であり、そしてその次はそれにまた続く時代である」

「イスラームを知る者はいなくなり、人々は無知な者たちを頭に仰ぐようになり、これらの無知な指導者たちは問われるままにイスラームの知識もなく教義判断を下し、自ら迷妄に陥ると同時に人々を惑わす」

いずれも預言者ムハンマドの言葉である。

イスラーム史学ではカリフ制は30年であり、その後に凶暴な王制が続くとしている。預言者の言葉通り、正義の正統カリフの時代は30年で終わる。正統カリフはイスラーム法的なカリフの資格条件を満たした指導者であるが、それ以降の王たちは武力によって実効支配を実現した「覇者のカリフ」たちであった。現代はオスマン帝国の崩壊とともに覇者のカリフすら消え去ってしまい、ムスリムたちは数ばかり増えるがみな世俗国家という異教の支配に甘んじて堕落して卑しめられている。しかしこれもまたイスラームの教え通りなのである。

6.カリフがなぜ必要か

イスラームの教義は唯一神が定めたものである。しかしそれは信徒に決定権がないという意味ではない。クルアーンや預言者の言行録(ハディース)はイスラームの法源であるが、イスラーム法学者はこの法源を研究、解釈を一般信徒に向けて示す。そして一般信徒は自身の尊敬する法学者の見解を自発的に選び取るのだ。
イスラームの法学者は聖職者ではなく、全てのムスリムがクルアーンとハディースについて学ぶことを奨励されており、原則としてすべての信徒はイスラーム法学者になり、クルアーンとハディースの解釈を行う権利を有する。

ではこのイスラームの営みにおいてカリフの役割とは何だろうか。著者によると、カリフの役割は武力をもってイスラーム法学者が裁判官として下した判決を施行し、イスラーム学者が安全に自由な学問を行う場を提供し、信徒たちがその学問的成果を選び取ることができる環境を整えること、異教徒による不正な弾圧、イスラームへの介入を防ぐことであるとしている。
カリフ不在の現代においてはイスラームの根本的原理である「アッラーの他に神はなし」ですら守ることができない。カリフ不在の現代ではイスラーム優勢の地域に住むムスリムですら世俗国家の支配のもとで暮らしており、時にはイスラームへの介入や弾圧が行われることすらあるのだ。カリフはこの末法の世において異教からイスラームを守るために必要であり、カリフの守護のもとでイスラームを再興するよう務めるのはムスリムの義務であると著者は主張している。

7.ガンビアの狂人と日本ムスリム協会の妥協

ガンビア人ムスリムが「ここで祈るな、ここに神はいない」と神社の賽銭箱を破壊する事件があり、話題になった。

彼は以前から言動がおかしく、あまりまともとは言えなかった。
この事件に対して日本ムスリム協会はこのような行為は宗教的観点から見ても誤っているとコメントしており、5/30には同協会幹部のムスリムが神社庁を訪問して「男の行為はイスラーム的に間違っている。我々に対立はない」と主張した。

上の記事にもある通り、容疑者は神戸のモスク内で自分は預言者イエスであると自称したりなどあまり精神的に正気だとはいえない。

しかしイスラームの教えから見るとどうだろう。アッラーの前では狂人も法学者もみな平等である。そしてイスラームの教えが唯一神の崇拝である以上、「神社に神はおらず、神社でここの偶像に向かって祈ったりするべきではない」という主張自体はクルアーンの解釈的に間違ってはいないのだ。
容疑者の言動は正気とは言えず、なんならイスラームの学問についてなにも修めていない可能性すらある。しかし、アッラーの前ではこの狂人も法学者も平等であり、彼がクルアーンやハディースに根拠のある主張をしている以上、彼の行為を誤っていると断罪することはできないのだ。
しかも日本ムスリム協会は容疑者の行為を断罪するのみならず、神道とイスラームを対等な宗教とみなして対話、和解までしているのである。神道は啓典の民ですらなく、土着の偶像崇拝の多神教である。日本ムスリム協会は「アッラーの他に神はいない」という教えを捻じ曲げて、土着の偶像崇拝の多神教と妥協の和解を結んだと捉えることもできるのだ。

8.ムスリムを世俗国家に包摂するには

私は神社を破壊することが正しいとも、日本ムスリム協会がガンビアの狂人を断固擁護すべきだとも思わないが、イスラームの教えと照らし合わせたときガンビアの狂人と日本ムスリム協会はどちらがアッラーの前に正しいことをしているのかと聞かれたら、ガンビアの狂人の方が異教に対峙する態度としては正しかったのではないかと思わざるをえない。

しかし、この日本ムスリム協会の妥協にも近い和解にこそイスラームという異質な他者との共存のヒントが隠されているのではないかと考えている。

我々一般的な世俗国家にいる日本人が異質な他者であるムスリムと向き合うとき、神社破壊のガンビアの狂人とイスラームの教えを捻じ曲げてまで神社と妥協する「法学者」のどちらと仲間になる方が容易だろうか。考えるまでもなく、我々と共存してくれるのは後者であろう。

誤解を恐れず言えば「堕落したムスリム」を増やして我々の社会に仲間として包摂するのがイスラームとの共存の近道である。イスラームの世界観的にも現代は末法の世であり、イスラームを個人の内心の問題程度にしか考えていないムスリムも増えている。もちろん異質な他者であるから対立も起こりうるし、ガンビアの狂人のような人が今後も事件を起こすかもしれない。しかしその度に穏健で、妥協の余地があるムスリムとの対話を続けて、少しずつ社会に包摂していくしかないのである。我々非ムスリムの日本人は異質な他者であるムスリムと対峙するためにもイスラームの理屈を、教科書に書かれているレベルより深く知る必要があるし、その理屈を理解した上で彼らとどのように共存していくかを考えていくべきだ。

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