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【フレンチポップス】Michel Berger(ミシェル・ベルジェ)について


①概要

 アイドル時代以降のフランス・ギャルについて語る上で欠かせないのが、作詞作曲家兼プロデューサーであり、ピアニストであり、自身も歌手であり、ギャルの夫でもあったMichel Berger(ミシェル・ベルジェ、1947-1992)の存在です。

1986年、ステージ上のベルジェ
 (Photo by frederic meylan/Sygma via Getty Images)


 私は最近までベルジェのことを全く知らなかったので、このような記事を書くのも非常に烏滸がましいと思うのですが…。彼の日本での知名度は「知る人ぞ知る」といった感じかと思いますが、本国フランスでは「1970〜80年代のフランスポップス界を大きく発展させた」存在であり、ギャルの夫であったこと、またその早すぎる死から、今でも「フランスポップス史を語る上で欠かせない存在」として度々話題に上げられる人物のようです。調べたことをまとめるだけになってしまうのが大変心苦しく思いつつも、ギャルの人生に多大な影響を及ぼした人ですので、ごく簡単にですがご紹介します。
 
 ベルジェの名前を聞いたことがなくても、これらの曲を聴いたことがある方は少なくないかもしれません。私はほぼTVを見ないので知りませんでした…。非常に勿体無いことをしました。

 これらの2曲はベルジェ原案・作曲のロックオペラ”STARMANIA”(スターマニア、1979)からのものです。特に"S.O.S d'un terrien en détresse"(悩める地球人のS.O.S)の方は、有名男子フィギュアスケート選手の演目として数年前に日本でも話題になったようです。どちらもとても美しいメロディーですね。

②生涯


 Michel Berger(ミシェル・ベルジェ)は1947年パリ郊外生まれ。ギャルと同い年です。父親は著名な外科医で母はピアニストという、いわゆる上流家庭の子でした。また、プロテスタントとして厳格な教育を受けたそうです。ちなみにミシェルは本名ですがベルジェは芸名、本当の苗字はHamburger(アンビュルジェ)です。

 ベルジェは勉学に励む傍ら、1963年に歌手デビュー(これもなんとギャルと同年)。当初はアイドル的な売り出し方だったようですがあまりパッとせず、60年代末からは若くしてソングライター兼プロデューサーとして活動します。またパリ・ナンテール大学で哲学を学び、卒業しています。とても賢い人だったようです。

デビュー当時のベルジェ
(Photo by Jean MAINBOURG/Gamma-Rapho via Getty Images)


 そして72年にワーナーミュージックに入社した彼は、女性歌手Véronique Sanson(ヴェロニク・サンソン)のプロデュースを手掛けます。サンソンは「フランス初の本格女性シンガーソングライター」と言われており、ベルジェとは恋人同士でもありました。しかし2枚のアルバムを一緒に制作した後、サンソンは突然ベルジェを捨て、新しい恋人を追って渡米してしまいます。

 ベルジェはサンソンへの傷心をぶつけるためか、自身の曲作りを再開。1973年に発表したアルバム中の一曲"Attends-moi"(僕を待ってて)が偶然フランス・ギャルの耳に留まり、それが彼女との長い関係のきっかけとなるのでした。何とも皮肉な話です。

 ちなみにギャルとベルジェは同年デビューということもあり、まったく知らない仲ではなかったそうです。何度か友人を介して一緒に食事をしたこともあったとか。それでも73年にギャルが曲提供を依頼するまでは、お互いに深い関わりを持つことはありませんでした。

 ギャルに曲提供の話を持ちかけられた当初、ベルジェは全く乗り気ではなかったそうです。「酷くプレッシャーを感じた」「彼女は自分の作る曲には合わないと思った」などと、後にベルジェは語っています。しかし何度かやり取りするうちに、ベルジェはギャルに秘められた高い可能性に気づいていきます。彼女は音楽一家に育ち、様々な楽器の演奏を身につけていただけあって、特に優れたリズム感を持っていました。そしてベルジェは何よりもリズミカルな曲作りに長けており、フランスのポップス界に新しい風を取り入れようとしていました。ギャルとベルジェ、まさに「運命的な組み合わせ」と言えるかもしれません。そして、その音楽的な共鳴はやがて愛情に発展します。2人の音楽と私生活は切っても切り離せない密接な関わりを持っていると言えます。

 その後、妻となったギャルのプロデュース、そして”STARMANIA”の成功で自信をつけたベルジェは、自身のシンガーソングライターとしての活動も充実させます。特に1980年の"La groupie du pianiste"(ピアニストのグルーピー ※グルーピー=熱狂的なファンのことは、チャート1位に輝く大ヒット曲になりました。

 彼は他にも映画音楽の制作や、ギャル以外への歌手への曲提供も精力的に行っています。のちにギャルは「ミシェルは曲を書くのが信じられないほど速かった。別の人が1枚のアルバムを作っている間、彼は2、3枚のアルバムを書いた」と語っています。相当な才能の持ち主だったことが伺えます。

 晩年、ベルジェはアメリカへの進出を考えていたようです。"STARMANIA”は”Taycoon”(タイクーン)として91年に英語版がアメリカで上演されました(あのセリーヌ・ディオンシンディ・ローパーらが出演しています)また、翌年にはギャルとの初のデュエットアルバム"Double jeu"最後のデュエット)を発表し、国外を含むツアーを計画していました。しかしそのツアー開始の直前である92年8月、友人とのテニスの試合中にベルジェは突然の心臓発作に襲われ、帰らぬ人となってしまったのです。享年44歳でした。

 なお、彼の死は当時「突然死」と受け止められていたようですが、後にどうやらベルジェ自身は自分の心臓の具合があまり良くないことを知っていたにも関わらず、充分な治療を受けていなかったことが明らかになっています。80年代後半の彼は近しい友人や家族の相次ぐ不幸、長女ポーリーヌの闘病、そして妻のギャルが歌手をやめたがっていたこと(おそらくお子さんのため)等により精神的に参っていたといわれており、もしかしたら半ば自暴自棄に陥っていたのかもしれません。晩年の写真は確かに急に白髪が増えていたりします…。

1979年、テニスに興じる夫妻
のちにテニスが夫ベルジェの命を奪ってしまった
(Photo by Daniel SIMON/Gamma-Rapho via Getty Images)


 ベルジェの死から数年後、ギャルは子どもたちを連れて渡米し、ベルジェの曲をアメリカ風にリミックスしたカバーアルバム"France"を出しています。また、他にもギャルは2018年に亡くなるまで、彼に関する書籍や写真集を出版したり、ジュークボックスミュージカル"RESISTE"を上演するなど、最後まで彼の功績を世に残そうとしました。「もし逆のことが起こっていたら(自分が先に亡くなっていたら)ミシェルがやってくれたであろうことを私はしているだけ」とギャルは語っています…。

 最後に1曲紹介しておきます。
 ベルジェ晩年の作品で、現在は早逝した彼の象徴のように扱われている曲"Le paradis blanc"(白い楽園、1990)

 再生回数(約3700万回!)やコメントの多さからも、ミシェル・ベルジェが没後30年以上経った今でも、フランスで愛され続け、聴き継がれている存在であることが伺えます。

 

③蛇足

 かなり蛇足かもしれませんが、2010年以降になって「88年以降の夫妻は実は不仲で離婚寸前だった」という説が囁かれています。今後この話をするつもりはありませんが、完全に無視するのもちょっとどうかと思いましたので一応書いておきます。噂が真実だったとしても、2人が残した名曲の素晴らしさは変わらない…と個人的には思っています。また、フランス人の恋愛・結婚観は日本人とはかなり異なっているようですので、その点も付け足しておきます。

 
 

【参考】
1994年のギャルへのインタビュー(英語の字幕付きです)

英語版のwiki 非常に詳しいです

参考文献 電子書籍です


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