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【国立大学文系】フランス語学習の思い出

 今回は少しフランス・ギャルの話題から離れて、自分の大学でのフランス語・フランス文学学習の思い出を書いてみたいと思います。今から20年弱前の話になります。なお、フランス文学を専攻する学生の数はそれほど多くないと思いますので、特定防止のため若干のフェイクを入れております。予めご了承ください。



第二外国語として

 プロフィールにも書いていますが、私は国立大学の文学部を卒業しています。

 おそらくどこの大学の文系学部でも入学直後に「第二外国語」を選択することになると思いますが、私はフランス語を選択しました。当時の私は漫画「ベルサイユのばら」や1950年代生まれフレンチポップス世代の両親のおかげで、いくつかの簡単な単語や挨拶文等の意味は知っていましたが、ほとんど何もわからない状態から第二外国語の履修がスタートしました。
(ちなみに第三外国語としてドイツ語も習いましたが全部忘れました…)

 ◆個性溢れる教授達

 絶対に日本語を話してくれない先生
 
オーラルの先生だったと思いますが、初回の授業からいきなり全部発言がフランス語の先生がいました。当然何言ってるのか全然わからず、もちろん学生にもフランス語での発言を要求。しかもなかなか厳ついフランス人のお爺ちゃん先生で、最初は毎回授業が憂鬱でした。それでも何度か授業を受けるうちになんとなくは聴き取れるようになったし、カタコトでも喋れば全然OKしてくださるし、実は優しくて面白い先生だということがわかりました。ちなみに「あの先生は日本語が話せない」と言われていましたが、休み時間には日本語を話していました。あと「お気に入りの男子学生の単位をわざと落とす」なんて噂もありました。大学教授って本当に面白い方ばかりです。

 r=喉の奥を0.8回転
 
フランス語の発音と言えば基本的にローマ字+鼻母音+特徴的な「r」の発音です。「r」は日本人には本当に発音しづらく、先生達の間でもそれぞれ個性が出ていました。私も未だに全然ちゃんと発音できません。
 最初に「r」の発音について習った時、「喉の奥を0.8回転ほど震わせながらハヒフヘホを言う感じ」と教わったのを今でも覚えています。0.8回転ってどうやってやるの!?という感じですが、ニュアンス的には本当にそんな感じです。ラリルレロよりはどちらかというとハヒフヘホに近いんですよね。

 "r"の発音についてはさまざまな動画がYouTubeに投稿されています。学生時代にYouTubeがあれば良かった…


 最後にネタバラシをする先生
 
まずなんらかの仏語テキストを配り、全部翻訳させてからテキストの正体を明かす…という変わった授業方式の先生がいました。もはや暗号解読です。何が何だかわからない文章を翻訳ソフトも役に立たない時代、一生懸命辞書を引いて訳していました。正体は子ども向けの絵本だったり、それこそフレンチポップスやシャンソンの歌詞だったりしました。

 確かこの先生の授業でフランス・ギャルの"Il jouait du piano debout"(彼は立ったままピアノを弾いていた)を翻訳した覚えがあります。

 これまでに何度も貼りましたがこの曲です。

 他にも歌詞の翻訳はいろいろやりましたし、最後に曲を聴かせてもらえるので大体の曲を口ずさめる程度には覚えられたのですが…何故か"Il jouait du piano debout"だけはタイトルしか覚えていませんでした。テンポが速くて歌詞をメロディに乗せて覚えられなかったからか、それとも歌詞があまりに抽象的だったからかもしれません。この授業ではこの曲が「あるアーティストに向けたオマージュ」とは教わらなかったと思います。フランス語学習1年目の学生には難しい内容だったのと、「愛国者」や「兵士」等の単語が出てくるので、何となく反戦歌なのか?と思っていました。(全然違った)

 他にもボリス・ヴィアンの"Le déserteur"(脱走兵)やエルザの"T'en va pas"(悲しみのアダージョ)などを翻訳した記憶があります。この2曲はいまだに歌詞を見れば歌えます。

 "T'en va pas"(悲しみのアダージョ、1986)
 こちらは日本でもかなり有名な一曲。2000年ごろEDWINのCMでも使用されていました。原田知世さん等もカバーしています。「彼と彼女のソネット」という邦題もあります。


 ◆初めてのフランス語テスト


 入学の数ヶ月後、第二外国語にフランス語を選択している1年生全員を対象とした、初めてのテストがありました。自分は「ギリギリ合格点で受かった落ちこぼれ学生」だという自覚があったので、「絶対に難しいに違いない、赤点必至だ」と考え、かなり頑張って自宅学習をした結果、100点を取ってしまいました。この時教授に褒めていただいた記憶がありますが、「赤点取りたくなかっただけだなんて言えない…」と、少々申し訳なく思ったのを覚えています。また、「日本の大学は入るのが難しく、卒業するのは簡単だ」と良く言われますが、正にその通りだな…と感じました。ただこの考えは間違いだと後になって実感するのですが…。卒業するのもやっぱり大変です!


専門課程

 ◆研究室の思い出

 確か2年生の途中か3年生の初めに研究室選択をしたと思います。日本史オタクだった私は、当初「日本史か考古学のゼミに入りたいな」と何となく考えていました。しかし文学部のゼミはどこも定員が少なく、人気の研究室は席の奪い合いです。日本史も考古学もそうでした。競争に勝つ自信がなかった私は、「フランス文学なら空いてるし、教授も優しいし、美味しいものを食べさせてもらえる」という先輩達の噂を聞き、フランス語まあまあ得意だし…と、結局フランス文学研究室の扉を叩くことになりました。

 研究室での授業はほとんどが先輩方と同じ枠だったので、非常に緊張しました。しかもフランス「文学」研究室なので、授業が始まる前に文章の意味を理解しているのが大前提です。毎回ヒーヒー言いながら予習していました。研究室に入る前はポップスの歌詞なども教材になっていましたが、ゼミで学ぶのは基本的に古典的なフランス文学です。辞書に載っていないような表現も多く、非常に苦労しました。しかし同期も先輩方も非常に優しく、わからないところを教えてもらったり、いろいろなアドバイスをいただきました。カラオケでフランス語の曲の魅力を教えてくださったのも先輩方でした。

 「優しい」と聞いていた教授は評判通りとても気さくで優しい方で、授業以外でもいろいろお世話になりました。本場フランスのワインを飲ませていただいたり、料亭に連れて行ってくださったり、非常にいい思いをしました…。

 ◆卒業論文

 卒論は日本でも有名な19世紀の小説家の作品で書きました。何故その作品を選んだのか、正直に言うと全く覚えていません…。当時はまだまだインターネットが発展しておらず、参考資料や論文を探すのも一苦労だったので、なるべく有名な作家の作品を…と選んだのかもしれません。

 日本語で論文を書くのはそれほど苦労しなかったのですが、私の研究室では更にフランス語での要約文を書き、それをフランス人教授に一対一でプレゼンする決まりがありました。これがめちゃくちゃ苦労したし、泣くほど緊張しました。読み書きはまあまあできる自信があったけれど、とにかく喋れない。でも、教授から見ればたかが4年間フランス語を学んだ学生など、ほんのひよっこレベルですよね…。とても優しく聞いてくださったのを覚えています。

 そんな思い出の詰まった卒論はまだ手元にあります。今読み返してみると、自分なりに頑張って勉強していたんだなと感じます。結局フランス語全く関係ない一般企業に就職してしまったのですが…。

 今は当時よりカジュアルな研究をするゼミも増えていると聞きます。今ならフランス・ギャル研究で卒論を書きたい。フランス文学のゼミではなく、サブカル研究のようなゼミでないと無理でしょうか。


番外編:海外生活

 大学卒業後は全く使うことはないだろうと思っていたフランス語ですが、地味に役に立った時期がありました。結婚した夫の海外赴任に伴い、3年ほど東南アジアの某国で生活していた時のことです。ギャル・ベルジェ夫妻のファンの方ならわかると思いますが、そこはアルバム"Double jeu"(1992)に収録されている"La petite de Calmette"(カルメットの少女)の舞台となっている国でした。その国は昔フランスの植民地であったため、現代でも看板やお店のメニュー、その他地名などにフランス語の名残があったのです。現地語が全くわからない身としては「少しだけラッキー」くらいの感覚でしたが…。
 そして、当時住んでいたアパートは今調べると舞台となった施設にとても近かったのでした。何と勿体無い…。私が住んでいたのはほんの10年ほど前ですが、夫妻が訪れた時代(1990年頃)はまだまだ内戦の爪痕が色濃く残っていたのだろうな…と思いを馳せます。

 








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