見出し画像

[Taka’s review] SAGOJO School 主催イベント【旅のミライを妄想するトークイベント「オン・ザ・ロード」〜 Vol.2 旅と地域と"学びの場づくり" 〜】に参加しました!

[Keywords] 学びの場づくり、シブヤ大学、レビュー記事、大学


この記事では、旅のミライを妄想するトークイベント「オン・ザ・ロード」の第2弾をレビューします。子どもの頃は「勉強勉強!」と親に言われたものですが、社会人になったら「勉強なんか意欲がない」「これ以上勉強は無理」というのが日本の現状でしょう。そんな中、ここ10年ほどで急速に広まった「生涯学習」というものがあります。そんな生涯学習の「学び場」を営む「シブヤ大学」さんとのコラボ・トーク企画です。「ナンジャラホイ??」と興味を持った方は是非是非ご高覧ください!(フォローと「スキ」もお願いします〜〜)


まえがき

初めての方も、いつもご高覧頂いていらっしゃる方も、当ブログ “Adventures of Philosophy&Art_X”にアクセス頂き有難うございます。Ty の日本語ブログを校閲している Taka です。前回の「オン・ザ・ロード」に引き続き、第2弾に参加してきました!!渋谷を拠点に「学び場づくり」を展開する「シブヤ大学」さんの学長さんにお越しいただいて、お話とトークで深掘りした様子をレビューしたいと思います。今回、(真偽のほどは分かりませんが)Ty は「仕事だから無理」ということで、あいにく対談形式のレビューはできませんが、Taka単独で、じっくり考えたレビューをしたいと思います。

「学び場づくり」への経緯

先に触れた通り、今回「オン・ザ・ロード」にご登壇いただいた方は、NPO法人「シブヤ大学」の学長(事務局長)である大澤悠季さんです。そして聴き役は、前回と同じく株式会社 SAGOJO のスガタカシさんです。

「#韓国語」というハッシュタグが気になっていました(笑)

大澤さんは「学び場づくり」という意識がとても強い方で「肩書を横に、自分の意見を語り合う」場所を提供して学び合うことを「シブヤ大学」の理念と位置づけていらっしゃいました。最近、日本でも認知度が上がっているデンマークの「フォルケホイスコーレ」のような「学びの場づくり」とのことでした。「フォルケホイスコーレ」は、もともと19世紀にデンマークの農村を中心に発達し、勤労青年を主たる対象にした社会教育施設です。デンマークの周辺の国、ドイツやスウェーデン、またはフィンランドにも同様の「市民大学」というものがあり、社会教育の場として機能しています。では大澤さんは何故「フォルケホイスコーレ」のような「学び場づくり」に関心があったのでしょうか?

沖縄への憧れ〜イギリス留学と今帰仁での活動

大澤さんの活動力の源は「沖縄への憧れ」に始まるとのことでした。10代の頃に、生まれも育ちも東京の大澤さんが沖縄の山原(やんばる)地域を訪問された時のこと、その自然に圧倒され感銘を受けたことが経緯で、以後、毎年沖縄に通い、沖縄で働く決意をしたのだとか。そのために選んだ学問は観光学(立教大学観光学部卒業)。「地域にはリーダーが必要だ」と思っていた大澤さんは、後にも言いますが、大学の教授の薫陶を受け、地域で働く心得を学んだことが、後の活動に大きく影響することになったとのことです。

また、22歳でイギリス留学し、イギリスの空気を如実に感じた大澤さんは、沖縄で働くことの気持ちに加えて、ある新しい萌芽が生まれます。

イギリスの郊外にある「学び場」に行っていた大澤さんは、老若男女が自分のコトバで議論し学び合う教育文化に触れ合います。そこでは、様々な意見を持った人たちが、時に衝突し、時に共存しながら、様々な学びを深めていく様子が「日本にはない!」と感じたとのことです。日本だと、どうしても「受験が終われば勉強も終わり。社会人は忙しい」という考えが現代社会に根付いています。そんな状況を変えたいと思ったことが「興味が観光から教育へ」と移るきっかけでした。

以下、大澤さんの学長メッセージからの引用です。

留学先のイギリスの学校で、戦争、宗教、LGBTなどの社会的なトピックに対する個人の考えが気軽に話される光景に出会いました。そこでは違う意見も1人の考えとして尊重されており、自分がつくりたかったのはまさにこんな場だ、と羨ましく感じました。自分の考えを持つ、異なる意見を聞く、意見を交わす場をつくる。
学校という中立的な場所だからこそ、この3つが実現できるのではないか。そう感じた私は、「誰もが自分たちの社会について安心して話せるプラットホーム」を「学びの場」を通してつくっていきたいと思うようになりました。

https://www.shibuya-univ.net/about/organization/

帰国後、大学を卒業し、地域おこし協力隊として沖縄の今帰仁村に就職。「高校魅力化プロジェクト」に参入され、そこでの活動から「今帰仁村ならではの学びの場所を企画したい」という信念を持ち、今帰仁村に公営塾を設立します。内容は紙幅の関係で詳しく言えませんが、あらゆる住人にとって学べる場所作りに邁進されたとのことです。

シブヤ大学へ〜旅と地域と学び場づくり

今帰仁村の公営塾で「公営塾塾長兼地域コーディネーター」として活動された大澤さんは26歳の時に、NPO法人「シブヤ大学」に関わるようになります。そもそも「シブヤ大学」は2006年9月に設立されたNPO法人で、今では日本各地に姉妹校も設立されています。

シブヤ大学の特徴

特徴には、授業料無料、渋谷自体がキャンパス、多くのボランティアスタッフによる運営、受けたい授業と思う自分の希望に沿って企画など、かなり学べる社会として学びの希望者に優しい運営方式と理念を持った大学と言えます。大事にしているのは「見つける学び場」というものです。

見つける学び場。

そんな「シブヤ大学」の生き生きと学ぶ「大人」の姿に「大人が学び続けにくい」社会を変える気持ちが強くなったといいます。それが学びを通した「自分軸で考え社会とつながる」ことで理想の社会づくりに向かって突き進んでいけるエネルギー源となっている、と、身近な社会と関わり普段交わらない人たち同士のつながりで「自分らしく生きる人を増やす」と、ここまで地方創生と教育を中心にご自身が邁進された経緯が分かります。では「旅」と「学び場づくり」はどのようにつながっていくのでしょうか?

実は大澤さん、今回のクロストークは初めての試みだったらしく、かなりお考えになっていたとのことです。その思考プロセスの結果、以下のような図を提示していらっしゃいました。

大澤さんにとっての「旅と地域と"学び場づくり"」を図解

要するに「旅」は地域間の隔たりで普段交わらない人がつながる手段として「学びの場」に関与しているとのことです。ある地域を想定して、そこには色々な社会的属性の人たちがいて、それが「学びの場」によって繋がっている状況を想定して下さい。そこに「旅」という要素が加わると、地域に固定されていた繋がりが更に拡大して、より広野な視点で「学び」を得られることになります。つまるところ、大澤さんには「旅」は一意に定まらず、様々な形があって良いが、それが異なる「学びの場」の人々やコミュニティ同士の繋がりに貢献するのだという理解をされているようにTakaには映りました。

MOUSOUクロストーク

大澤さんの信念をじっくり理解する時間を頂いた後で、お待ちかねの「MOUSOUクロストーク」が始まりました。今回、参加者の掛け合いが面白かったのです。というのも「MOUSOU」が連鎖して、どんどん話が膨らんで行ったもので。Takaの文章力では歯が立たないですが、その一部でも感じ取って頂けると幸いです!!

MOUSOUクロストークは止まりませんでした!!

「学び場づくり」や「学び」に大事なこと〜上から目線な「地域のため」〜渋谷と今帰仁の比較から見えた共通点と相違点

大澤さんが大事にする「学び場づくり」や「学び」の姿勢ですが、ではそのコアな部分で重要となる要素はどう捉えていらっしゃるのでしょうか。大澤さんにとっては、それは「自分が楽しいからやる」というパワーだとか。どうしても、学びというものには苦痛が伴うモノ、それを人に学ぶ機会を提供する側としては、イヤではそもそもできないと思います。

また、大学の教授の薫陶で学んだことも今や大澤さんのマインドセットになっていることがあります。それは「地域のため」とか「他人のため」というように何かに寄与や貢献をするという一見殊勝な目的を廃することなんだと言います。それは指導を請うた大学の教授には「上から目線」なものだということです。それに対して、スガさんも納得のご様子で「歯車がおかしくなる」ということを応えられていました。

確かに、うっすらわかるのですが、実はTakaには未だによく分かっていない最大の部分で、これは将来も、なぜ「上から目線」になるのか考えなければいけませんが、今のところの理解ですと「まず地域に根差しているよう努力すること」そして「地域にコミュニティを持つこと」そして「地域を好きになること」が第一の目標となるべきだ、というように言えるのでしょうか。

そうは言いながら、本当にめちゃくちゃ「上から目線」で大変申し訳ないですが、面白かったのは「渋谷のローカル性」や「渋谷と今帰仁村」の共通点と相違点という話がなされたところです。全部は書けませんが、そういう議論の末、特筆すべき皆の意見で一致を見たのは「渋谷のこと意外と知らない」ということでした。それは実は渋谷区は町内会が強く、とてもローカル性が強い土地でありながら、行政の対応が利く地域でもあり、当事者として渋谷のコミュニティに関わる意識が薄いために、渋谷は「スクランブル交差点」とか「ハロウィン」といった薄いイメージしか持っていない人が多いギャップがあるという帰結として言い換えられます(参加時の話の流れであった大運動会の件など、地元住民には渋谷の結束力は旧来から強いそうです)

「外モノ」である旅人の価値をどう見るか〜地域は「シブヤ大学」に何を求めているのか?〜今後の展望

今回のテーマが「旅」を含むクロストークであるために、いわゆる「外モノ」の旅人の「学び場」における価値は何なのかという問いかけがスガさんから成されました。大澤さんも「外モノとしての旅人」について常に考えているとのことで、かなり慎重にコトバを選んで答えていらっしゃのが印象的でした。その答えは、基本的には「外から見た視点の課題発見を発信する」価値だということです。大澤さんにとって「ごちゃ混ぜ」というのが学びを得る話し合いには重要であり、価値観をともにする似たモノ同士(いわゆる「類は友を呼ぶ」)の形では、議論に進行性がなく、阿吽の呼吸でわかってしまう部分もあり「なぜそれが論理的または合理的に成り立つのか」について説明を求め合うことがなくなると言います。これ、本当にもっともだと僭越ながら思ってしまいました。言い換えれば「ステークホルダー」としての定住者に旅人自身が自分の価値観で「ヤリを入れ」風穴を開けるような、課題発見と発信を、ゼロベースで可能なのが旅人の価値なんだということです。

地域の学び場として生み出したいもの

加えて、大澤さんは「架け橋」という中間地点を中継する役割としての旅人の意義や価値を重要視しているとのことでした。または異なる地域の住民は異なるコミュニティに分断されがちとのことで、そこをつなぐ存在として「中継役」はコミュニティの関係人口を増やすためにも非常に重要な役割を担っています。大澤さんの期待には、そういった「架け橋」を担える人材として旅人があるとのことです。このように「ごちゃ混ぜ」と「橋渡し」で「学びの場」はより良質になるんだという、一貫した通念があるように感じられます。

今後の展望は、やはり海外展開。デンマークのフォルケホイスコーレのような「市民大学」とか「公営大学」と形容できるような海外の公共教育施設との展開で、より多くのインタラクションを希望されているとのことです。

[Taka’s review] 大学よりも大学らしいユートピア

いま、日本の大学は危機にあると思います。一方で、レジャーランド化していますし、他方では就職訓練学校のような「何のための学びか」を問うてもマンネリズムの極みのように「就職のため、収入のため」という九官鳥の真似事のよう… 大学とは本来「研究機関」であり、学びたいことを自由に学べる基盤があってこその「教育の最終奥義」を体得する場であったはずであったのに… そんな疑問を学生の頃から持ち続けたTakaには「シブヤ大学」は特別に映りました。いえ、特別なことに終始する場ではなく、これが理想であり、ユートピアなのかもしれません。

学びの「作り手」が、ひとり目の学生〜大学らしさが失われる中で…

おそらく大学が「大学らしさ」を失っていると感じる最大の要因は「教育の質」というところでしょう。これでは陳腐な表現ですが、大学教育を担う教員は、もっと「とんがっている」べきでなければならないのです。言い換えると、教員であっても常に「学びに貪欲」であって「追究心」を追求する必要があるとTakaは思うのです。それは、「シブヤ大学」の学びの「作り手」が「ひとり目の学生」として機能しなければならないとも捉えられることなのです。

たとえば、英語がテーマなら「文法」や「受験対策」などは受験予備校までにしておいて、大学では「カルチャー英語(文化的に受容された英語)」とか「生の英語(実際にネイティブが使っている英語)」を教える、いえ、学べることが重要だと思うのです。ここ、TakaのMOUSOUでは「学べる」とか「学び合える」というのが理想と捉えていることがポイントになります(何の権威が?? 笑)要するに、アクティブラーニングの基本ですが「体験を通して、人に教え合う」ことが重要になってくるわけで、それを体得するには教員は「気づきを与えられる」存在ではあるものの、あくまで「学びの場」のパートナーであるべきなのです。

「シブヤ大学」の場合、更に教室環境という感覚を良い意味で壊してくれる存在がいます。それは「コーディネーター」と呼ばれる授業企画者であり、この「コーディネーター」は講師とインタラクティブに、学ばせる雰囲気を作ってくれるのだと推し量れるのです。おそらくコーディネーターという制度は、昔は「〇〇ゼミの助手(博士課程在籍者やポスドク)」とか「助教授」がやっていたと思うのですが、大学組織の改革(改悪?)で、コーディネーターのような「学び」を講師と学ぶ人の間でつなぐ役割を担った人が消滅したのでしょう。

そういうわけで「シブヤ大学」が授業料無料であり、教育奉仕の精神がなければ成り立ちませんが、学びを極める人たちには、まさに理想郷ということになります。

「単なる国際交流」で終わらせないために

先に「フォルケホイスコーレ」の話が出ました。繰り返しですが、大澤さんの計画では海外の「学びの場」との連携を模索しているのだとか。ここで「海外」という要素が出てくると、読者の皆さんにも、おそらくは「国際交流」が、そういった交流には重要な要素になってくることは、容易に想像がつくはずです。では、理想郷の「国際交流」には、何が理想の国際交流であり、それは「単なる国際交流」とは何が違うのでしょうか。これにも学びの深さが関わっていると思われるのです。

大澤さんが感じたイギリス留学中に関わった「学び場」での雰囲気は、そのまま理想の国際交流のイメージに直結しているように思えました。すなわち、異なる世代や属性などの、あらゆる人が「自分の自分らしいコトバ」で議論して、あらゆる学びを発見し、深めていく雰囲気であり、それが海外という価値観が同一とは到底言えない人間同士のインタラクションで、自分の知見の深化と視野の拡大を、何らかの形で成し遂げられれば、または、それを成し遂げようと積極的に行動する姿勢が見られれば、それが真の国際交流と言えるという印象がTakaにはありました。この点、英語が共通のコミュニケーションツールになるのでしょうか。それとも通訳し合って、お互いの言語で行うのでしょうか。コトバを専門に扱うTakaにとって、いろいろ疑問は浮かびましたが、建設的に企画していく必要がありますね(あれ、もしかして企画に関わりたい感じですかね 笑)

いろんな所にあって欲しい「学びの場」〜利害なく対等に「問いかけ」話し合う

レビュー最後の関心ごとは「シブヤ大学」は、大まかに将来どうあるべきなのかということでしょう。参加された方からは「いろんな所にあって欲しい」という意見が挙がったのですが、Takaも確かにそう思います。

大学は民営化・独立行政法人化したことで、本来所得の低い人にも門戸が開かれていたはずの国公立大学でも、相当額の教育費を投資しなければ入学すらままらない状況になっています。そんな時代の悪い潮流の中で「シブヤ大学」が他の地域と連携して、至る所に同じ形の「大学」があれば、より対等な立場での「学び合い」ができると考えられるのです。では、その「大学」は、どのような軸をブレなく保つべきなのでしょうか?

大澤さんのコトバを引用すると「自分の肩書」を前面に出さず「利害なく対等に問いかける」ことで「話し合う」ことだということです。これ、Takaとしても、日本の将来としては非常に重要と感じる要素だと思います。

かなり社会批判になりますが、日本は「努力しても報われない」国と言われています。確かに住みやすい要素はあるのですが「生きる選択肢」は少ないようにも感じます。それは同質の人間で集まっているからではなく、同調圧力により、生き方を制限されているからだと思います。そこら辺を、最後に掘り下げます。

日本の構造は「年上の男性」に有利な構造を持っていると言えます。それは偉人とされる政界、学界、知識人界、経営陣などに属するが「白髪かハゲているジジイ」で構成されていると揶揄されても、私には反論の余地はありません。今でこそ「男女共同参画社会」という理念のもと政策はあれど、男女が共同した実感値は全くないのが現状です。このことから推測できることには、日本は「答えのある社会」であり「型通り以外の価値観は排除される社会」であるわけで、それは実に「自分らしさ」を失わせる要因になっていることは、自明なことであると言えます。

理由は、深い分析が必要ですが、一部には我々日本人という人々が、一方では島国の民であり、他の側面では長期的に高度経済成長からバブル崩壊を経ても社会変革を成し遂げたわけでないことに起因していると思われます。または、人間が「慣性の法則」で動いているからと、一般化できそうです。そして、それは教育水準を上げなければ、変革は起こらないとさえ主張できそうです。因果関係が前後しましたが、どういうことか説明します。

まず、島国はむろん海に囲まれています。つまり異民族の侵入や異国間交易による接触を比較的受けにくいために、異質な価値観との触れ合いは必然的に少なくなると言えます。少し前後しますが、人間は「慣性の法則」に従って価値観も習慣も動いており、たとえそれが可塑的でも、よほどのショックか相当の時間をかけないと変化が起きにくいとすら言えます。要するに、人間は頑固なのです。ということは、異質なものが流入しにくい島国では、余計に価値観が固定されやすいはずなのです。これをTakaは「社会の硬直化」と言うことにしています。

もっとも、日本の「社会の硬直化」は歴史的な側面もありますが、現代社会が硬直化したことには他の理由も挙げられます。それは、いまだにトップの交代が上手くいかないために高度経済成長以降、社会変革が起きていないという側面です。結果論でありますが、実際日本での社会変革が遅いのは事実です。特に世界がインターネットや国境を超えた工場の稼働に基づいてグローバリズムに向かった1990年代以降、新興国は日本から「学び」を得て成長してきました。一方の日本は、先進的な学びを得て、それを導入したエリート陣営は誰でしょうか、名前をあげることが出来るでしょうか。この問いには、果たして「学のある」とされる人々が、どれだけ先進性を進取して行動している姿を見せていたかについて問いただす真意があります。名を挙げられても、その数はほんの一握りでしょう(この点、政治イデオロギーとは関与していないと断っておきます)

もちろん、大陸であっても社会の硬直化は起こります。それを如実に代表しているのがソビエト連邦の崩壊でした。マルクス=レーニン主義をもとに共産主義体制を築き一世を圧巻したソビエト連邦は、約30年前にクーデターで崩壊しました。その原因は、経済の停滞によるものと言われていますが、その中心には、教育水準の低さが挙げられています。その原因の主な部分は、共産イデオロギーの特徴として教育水準が上がりにくいと考えられるからと言えます。

どういうことかというと、共産主義は、あらゆる階層の私財保有の放棄を謳っており、その財産を中央政府が一元管理して、平等に分配するというシステムをとっています。そこから導けることは、中央政府に従っていれば「考える」ことなくして「学ぶこと」なくして一定の財産を得られる、いわば「自動振り込み」の状態になります。それを言い換えると「努力しなくても国が面倒みてくれる」状況になってしまったのです。これは「学ぶ意欲」を削ぎ、言い換えると「教育の質」を著しく低下させたと言わざるを言えません。中国の鄧小平による市場開放やベトナムのドイモイ政策は、そういった共産主義の構造的欠陥を補う要素があると言えます。

取り止めもなく、のべつ幕なしに持論を展開をして、めちゃくちゃ恐縮で申し訳ないですが、「自分から学ぶ」ことの意義は、何よりも「自分らしく生きるため」にあると思います。それが日本だろうが旧共産主義国家だろうが関係なく、生活の質の向上には、たゆまぬ「学ぶ努力」が必要なのです。MOUSOUと持論が過ぎました。これぐらいにしておきます。

しめくくりのコトバ

今回、だいぶ長くなりましたが、いかがでしたでしょうか?この記事では「オン・ザ・ロード」第2回として「旅と地域と学び場づくり」というテーマで、大澤さんと進行のスガさん他に参加者も「ごちゃ混ぜ」になって、いろいろ学ぶことが多かったと思います。皆さんも「自分が学ぶのが好きなこと」ありますか?もしくは「学びの場」に生涯関わりを持ちたいですか?私 Taka は是非とも「シブヤ大学」で「教える立場のひとり目の学生」になりたいです。そのためにも「上から目線」にならずに、まずは参加することから始めたいと思います。

[関連リンク]

特定非営利活動法人シブヤ大学
https://www.shibuya-univ.net

SAGOJO School/株式会社SAGOJO
School: https://school.sagojo.link
SAGOJO: https://www.sagojo.link

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?