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「リトル・リチャード:アイ・アム・エヴリシング」ロックンロールとはクィアの肯定である。

どうも、安部スナヲです。

ロックンロールのレジェンドのひとり、リトル・リチャードのドキュメンタリー映画「アイ・アム・エヴリシング」観て来ました。

偉大な音楽家だからといって、みだりに〈レジェンド〉なんて呼ぶのは些か稚拙に思えるが、この人の場合はレジェンドとしか言いようがない。

しかしながらこの映画を観ると、レジェンドなんて偶像化すること自体、御本人にとっては理不尽なのかも知れないと思った。

ザックリした見解だが、ブルース以降、エルヴィス・プレスリーが出てくるまでのロックンロールスターといえば、リトル・リチャードとチャック・ベリーだろう。

どちらもことさら偶像化されているのは、ロックンロールロール創成期の1950年代に、それぞれ、スタイルを確立したからだ。

出典:映画.com

あの時代、ロックンロールをやっていた人がどれだけいたか知らないが、たいていはどちらかのスタイルを模倣していただろう。それはエルビスもビートルズ、ストーンズも例外ではない。

なかでもリトル・リチャードが不遇の人なのは、誰もが認めるパイオニアでありながら、相応の栄誉を得られなかったこと。

黒人であることとゲイであることを、ひとまず置いといたとしても、時代との歯車がいつも微妙に噛みあっていなかったということが、この映画でよくわかる。

まず「トゥッティ・フルッティ」は一歩早かった。

だからロックンロールロールが白人に浸透しつつあるタイミングにあらわれたエルビスとパット・ブーンに、さらわれるように持って行かれてしまった。

悔しいので、あいつらに出来ないテンポの曲を作ったるわい!と生み出した「のっぽのサリー」も、ヒットはしたが、エルビスに比べたら可愛らしいものだし、皮肉なのはその8年後にビートルズがシングルカットしたバージョンは、世界への波及力という点では誰もかなわない。

このように、本来なら讃えられるべき功績が〈つまづき〉になってしまう不思議な不運さがこの人にはある。

そして金銭管理に疎いという、これも昔のミュージシャンにありがちなネックだが(チャック・ベリーはこの点に長けていた)、スペシャルティレコードとの契約がなおざりだっため、曲はヒットし、知名度があるにも関わらず経済的恩恵を受けきれていない。

時代とのずれの要因として、もうひとつは信仰とショウビジネスの不均衡があった。

突然「神の啓示を受けた」と言って引退し、大学に行ってみたり、ゴスペル一辺倒の活動に特化してみたり。

〈ロックンロールスター⭐︎リトル・リチャード〉の世間的なイメージは尻切れ蜻蛉のまま、それこそ偶像化してしまった。

64歳になった1997年、「アメリカン・ミュージック・アウォード」の功労賞を受賞した場面は、正直驚いた。

受賞そのものに驚いたのではなく、それを受けて嗚咽せんばかりに号泣してる彼(と、当時のマネージャー)に驚いた。

こちらからしてみれば、リトル・リチャードともあろうお方が、たかがあんな賞ごときを有り難がるのか⁉︎という驚きである。

しかしあのような切実な号泣を見せられると、「本当に良かったね!」と、もらい泣きせざるを得ないのだが…

劇中のインタビューにおいて、学者のザンドリア・ロビンソンが、〈クィア〉とは単に性的マイノリティをさすのではなく、〈異端〉を意味する言葉であると語っていた。

彼は生まれながらに異端であった。

ゲイであるだけでなく、片側の手足が短かい特異体型だった。そのことで父親からは敬遠され、酷く傷つけられた。

だけど自らの異端を自ら最大限に肯定し続けて来たからこそリトル・リチャードはリトル・リチャードなんだと思う。

ドラグクィーン(女装パフォーマー)の感性をロックンロールに落とし込んだのも彼だし、「ワッバッパルバッパルッバッバ」という雄叫びスキャット?も然り。

出典:映画.com

いつだってエキセントリックに人を熱狂させながら、世間が認めようが認めまいが「オレはロックンロールの設計者だ」と主張し続けて来た。

ちなみにロックンロールという言葉は元々はSEXの隠語。

それをさらに〈カマ掘りソング〉にまでひねった「トゥッティ・フルッティ」が如何にアナーキーだったか。

世俗に倣って「不適切にもほどがある」なぁんて言ったらリトル・リチャードは、乙に済ました目玉をギョロりとさせ、あのデカい口でこう返すだろうか。

「shut up!(お黙り!)」

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