三善晃の創作意識変遷について 第5章

第五章 創作意識変遷の終結 ー1980年以降

さて、第四章第六節で見たように、三部作で三善は子どもに「絶望」からの「愛」を託してしまった。そこで三善の創作意識変遷は完結したのかもしれない。また、そのような面のみならず、西洋への意識変化からも創作意識変遷の終結は読み取れる。長くはなるが、河野との2001年の対談を引く。

僕は留学から帰った時、自分で音楽を書いたらそのことがヨーロッパの人にも分かってもらう、というか、勉強してきたからこう書いたという答えを出すというのではなくて、自分はこれを生んだんだということがそのまま向こうの人が分かってくれるのでなければ作曲する意味もないから、そうなるまでは自分の意志でヨーロッパやアメリカへ再びいくのはやめようと思い、十年以上意識的に日本にいて、自分の音の言葉を捜そうとしていたのです。
僕の作品に「アン・ヴェール」というピアノの小品があるのですが、この曲は一九八〇年に行われた第一回の「東京国際音楽コンクール」のピアノ部門の課題曲だったのです。世界中から若い人たちが来て、課題曲ですからみんなみんな弾くわけです、第二次予選でしたが。そうすると日本人よりも外国人の方が理解している。「アン・ヴェール」というのは実は「韻を踏んで」という意味で、日本の詩で韻を踏んでいくのがありますよね。ヨーロッパのとは違った形で。それと同じ意味で韻を踏んだ音楽なのですが、それを外国人の方の方がより深く理解して弾いてくれたのです。あ、これで僕は、自分の足でヨーロッパに行ってもいいな、とその時は思いました。ですから一九五〇年代の留学から帰って一九八〇年まで自分の音楽の言葉が分からずに捜していたのです。

河野保雄・三善晃(2001a)
「河野保雄連載対談(32) 三善晃の音楽世界を探る;「弦楽四重奏曲第一番」について ー三善晃」,
『音楽芸術』31(2), p.131, 音楽之友社.

もう何度も指摘しているが、三善はパリ留学以来やはり西洋音楽との距離感をはかりながら自らの語法を磨こうとしていた。とはいえ第四章第三節第一項で見たように、三善はそのようなある種の呪縛から1968年には解放されていた。だがここでは三善のこれまでの試みは、1980年の《En vers》によって、西洋音楽に自分の技法も通用するという自信へと一段昇華した。三善は「自分の音楽の言葉」を見つけてしまった。これは「伝統」の概念から考えると、自らの語法によって、三善は日本だけでなく世界にまで通じたことになる。

三善はロマン主義者であり、習作期を終えた直後から「レゾン・デートル」を意識してきた、ということは既に何度も指摘した通りである。もちろん三善に「レゾン・デートル」がある限り創作は続くだろうが、すでに自らの精神への旅は「生と死」という極限に到達した上で「伝統」の態度も加味された一つの答えを出し、さらには子どもに託すという一つの答えまで出してしまった。そうであるならば、この先の三善に、すでに新しい概念は出てこないだろう。そのことをこの章では可能な限り確認し、本論文はそこで終了することになる。

第一節 幾度も登場するテーマ

三善は随筆家であった。1980年代以降はさらに新聞の連載なども増え、随筆を中心にまとめられた『ヤマガラ日記』と『ぴあのふぉるて』が各々1992年と1993年に刊行されている。これらが示す三善の社会を見つめる目は、同時に三善自身の考えを透視してくれると言って良いだろう。

三善は同時に対談にも多数参加している。それは1974年に桐朋学園大学の学長に、就任した影響かもしれないが、このような対談もまた、三善の考えをいっそう深く知らせてくれる。

このどちらにおいても、この時期には何度も語られる話がいくつかある。それらはやはり三善において何かしら重要な概念である可能性が高い。すべてを確認し切ることはできないが、6つのテーマを3つにわけて確認していく。

第一項 「出会い」

「出会い」という概念は三善においてとりわけ重要であり、「それぞれの螺旋と」や「私たちの裡を満たす光波」などに見られる。「私たちの裡を満たす光波」は亡くなられた池内友次郎先生への思いが語られているが、1979年の『遠方より無へ』ではパリでの下宿先のおばあさんについて語られることもあった。この項には分類しなかったが、矢代秋雄との出会いと別れもあり、また1975年の《変化嘆詠》を生み、「日本的なもの」を得るきっかけともなった母の死など、様々な人との出会いや別れは三善の文章に多く見られている。

振り返れば、三善は何度厳しい目を自身へ向けようとも、常に何かに影響されてきた。例えば1962年の《ピアノ協奏曲》は田中希代子のピアノに影響されていたし、ほとんどの合唱曲は詩人との「出会い」に依っている。三善はとりわけ1980年以降の時期に合唱曲の創作が多くなるが、それらもまた「出会い」という概念の中に取り込んでもいいのかもしれない。これらの「出会い」の意味は「それぞれの螺旋と」のなかで以下のように記されている。

五回に亙り、《出あいの風景》を書いてきた。私にも、恩師、先輩、友人との、そんな《風景》は私なりにあった。だが、それらの場面は、それがどんな遠近法を持とうと、時空のパラダイムのなかでは一葉のスケッチに過ぎまい。《出会い》と言うなら、私がこうして生きていることの全体が、世界との、他者とのそれであり、それによってのみ私は、今も自分自身と出会い続けているのではないか。

三善晃(1993a)『ぴあのふぉるて』, pp.67-68 , 毎日新聞社.

三善にとって「出会い」は世界との接点という意味を持っていた。これは三善にとって「もの」と向き合うことの延長にあると考えられるだろう。

第二項 「見えないもの」と「風土」そして「共存」

「見えないもの」という概念は、具体的には「スプーン一杯の土の中にも一億の細菌がいる」という例え話から始まる。「見えないものたちと生きること」や「不明を生きる」にこの概念は出現するが、「見えないものたちと生きること」では「見えないもの」と死者が、「不明を生きる」では「見えないもの」と物事の背理にある法則が、各々対応している。

「見えないもの」は「見えるもの」と対になっている。私たちは「見えるもの」しか見ることができないが、そこからむしろ「見えないもの」を「見られる」こともある。このような考えは三部作の中で往還する眼差しとなって立ち現れていたが、これもまた眼差しを向けるという意味で、拡張された「もの」の系譜の中にあると言えるだろう。

「風土」という概念は、これまでにも見たように、1975年の「生の途切れに」から明確に見られるようになる。それ以前も料理や旬のものという話はあるが、この文章からいわゆる「日本的な自然観」というものが三善の中に入り込んでくる。それは生死の概念が、西洋的な対立するものではなく、「自然」のなかにとけるようにして見出されることによる。「風土」や「自然」について書かれた文章は多いが、「四季と風土と民謡と」には以下のような文章が現れる。

風と土……人と自然の関係を表すこの二文字の熟語には、産物ばかりでなく、言葉、信仰、習慣、芸能など、自然が人の生き方を通して生み出すものの総体が表現されているようです。「この寒さじゃ、ねぇ」……天を恨む。けれど、その天に祈りもする私たちの心の赴き。それが日本の風土です。

三善晃(1993a)『ぴあのふぉるて』, pp.55-56 , 毎日新聞社.

この文章からわかることは、その受動性であろう。「もの」との関わり方の緩やかさという意味での変化は、言い換えれば受動性の向上と捉えて良いのかもしれない。そこまで深く捉えずとも、前述した通り、「風土」という概念はすでに登場しているものである。

「共存」もまた頻出する概念である。「たった一つの星の上で」など様々な文章で語られるが、ここでは「個性と共通感覚」の文章を引きたい。

作曲という仕事がどんなに意識的であり、その意識がどんなに新しいものの創造を心がけていても、深いところではそれは個人・時代・民族そして人類そのものの記憶につながったものでしかあり得ないのでしょう。
……ということは、しかし、素晴らしいことだと私は思います。
一人の作曲家は個人であると同時に、ある時代・ある民族に属し、そしてなによりも人類の一人として生きています、だからこそ、個性という「その人らしさ」を形造りながら、同時に、音楽という「人類共通の営み」に参加することも許されるのですから。

三善晃(1992)『ヤマガラ日記』, pp.68-70 . 河合楽器製作所出版事業部.

この文章は明確に「伝統」概念の影響されている。特に1968年まで、三善に社会的な目はあまり見受けられない。「共存」の概念もまた、自らが日本と通じ、そして世界と通じるようになったこと、また同時に子どもへと託すというその眼差しから生まれてきたものであったことは違いないだろう。そう考えると、これもまた前の期間に見出せる眼差しである。

これら3つの概念をここでは見たが、これらは全て「もの」の概念が拡張し、「伝統」を世界にまで広げて自らのうちに取り入れた三善に当然あるべき姿であり、新しい概念ではない。

第三項 「こと分け」と「みんながいたからよかった」

「こと分け」は、言葉を知っていく状態を指して言う。言葉を知る前、私たちは言ってみれば概念を知らず、 内的世界は非常に多義的であった。そこに「言葉」という概念が当てはめられることで世界が確立されていく。そのような多義性を子どもに見出す点でやはり三善は子どもへの眼差しが強い。

「みんながいたからよかった」は、みんながいたから逆に自分がいると気づけた、という子どもからの手紙が元になっている。「もの」は拡張され、「伝統」になった。反対から、逆説的に何かを眺めることは「見えないもの」の概念でも同じだと言っていいかもしれない。もしくは「孤独」の概念のように、各々が「孤独」であるからこそ繋がれる感動があるということにも近いのかもしれない。ただしここではより顕著に、多義性への眼差しが見られているとも言えるかもしれない。

これらは共に、多義性を見つめていた。しかしこれらもまた、「もの」の拡張の系譜の中にあることは変わりないだろう。

第四項 随筆家としての三善晃

第一項から第三項では、この期間から語られ始めかつ何度も繰り返されているテーマを考察した。考察は随筆から的確な概念を抽出することの困難さもあって少々強引であるが、これらのテーマの新規性のなさとはまったく別の面から言えることも一つある。それは、すでに三善が創作上の苦悩を抱えているように見えない点である。新たな危機が三善を襲うこともない。随筆からは、社会の様々な現象に対して適切なテーマを割り当てて話す、知識人としての三善が見えるだけである。

ここで重要なことは、三善の目にいつの間にか社会が映っているように見えることである。それは1968年から1984年にかけて「伝統」の概念を取り込み、一方で子どもへの眼差しも生じたことに起因しているのかもしれない。そのような社会への眼差しは、1979年出版の『遠方から無へ』に収録された新聞記事には深くは見られないものであり、1980年以降に特徴的な点は、まさにここであろう。そのような眼差しを検討するには、四部作をはじめとした三善の作品からも確認していく必要がある。

第二節 作品群の新規性

この時期の作品は合唱作品を除いて楽譜の多くが出版されておらず、深い考察は困難であるが、編成なども含めつつなるべく検討していく。

第一項 大規模器楽作品 ー四部作から《遠い帆》、《三つのイメージ》へ

合唱と管弦楽のための三部作が1984年に完結したのち、1995年から1998年にかけて、声楽を伴わない純粋器楽作品として四部作が生まれた。《夏の散乱》《チェロ協奏曲第二番「谺つり星」》《霧の果実》《焉歌・波摘み》の四作品である。これらは一連の作品として捉えられており、また三部作との連関もある。三善が四部作のCDに寄せた文章を引く。

三部作のとき〔中略〕、そこには私がいた。死者と生者のなかに混じり、ときに従って喜びや哀しみや憤りの声を挙げ、祈り、あるいは黙し、死者と交歓して踊り、生者とともに膝まづく、そんな私が、いた。
その後、四部作までに年月が過ぎた。四部作のとき〔中略〕には、そのような私はいなかった。替わりに八月がそこにいた。終戦の日(1945年8月15日)に向かって二つの原爆の日(8月6日、9日)の並ぶ八月が、歴史の刻印のように不動の風景として、いつの年もそこに残されていた。

三善晃(2009)「無言の風景」「プログラム・ノート」,『三善晃 交響四部作』, p.4, 日本伝統文化振興財団

ここで三善は「生と死」から「八月」へと明確に眼差しを変えている。もちろん主題は共に太平洋戦争が中心であるし、三部作のように生者から死者への眼差しと死者から生者への眼差しが作品ごとに反転している点は佐野(2009)も指摘している。とはいえ、たしかにこれまで虚心に自らを見つめていた三善は、ここでは一歩遠景へと遠ざかった。眼差し拡張し、社会へと行き着いたかに見える。

だが、実際にそうなのであろうか。たしかに19958689を音列化して使用するなど、一歩遠のいたものを通して作品を見出そうとしたし、当然ではあるが、変奏の巧みさや音響設計の緻密さなど、技法は進歩した。しかし三善は、《夏の散乱》初演時の文章を「なぜ生きているのかを私は書かねばならない」と締めくくった。三部作もそうだったが、四部作も単純に戦争反対と叫んでいるわけではない。むしろ反戦と戦死者への哀悼の念を捧げながら、それ以上に「生と死」への眼差しが垣間見えている。やはり三善の創作意識は常に「孤独」によるのだ。

三善唯一のオペラである《遠い帆》は1997年から書かれ、1999年に初演された。この作品の中核的なテーマは「不条理」であり、創作は、音楽もまた「母国語の所産だという」意識と「舞台というものをもう一度〔中略〕型式から解放し、人間の等身大の営みを意味付ける時空間として考え直したい」という願いを背景に行われた。すなわち創作意識は「伝統」に端を発する訳だが、しかしそれをもう一度、いままでの型式から離れて捉え直したいという点は、もちろんすでに「呪縛」されるわけではないが形式との間をはかっていたこれまでとやや近しいかもしれない。しかしここで何より考察すべきは「不条理」だろう。

「不条理」の概念は新しく見えるが、実はそうではない。三善の卒業論文のテーマはカミュのはずだったし、カミュはその後も何度も登場する。1965年の「日常の鎖」、1971年の「生の最高の瞬間」に1975年の「樽との会話」とコンスタントに出現している。用例が少ないため「不条理」という言葉を三善がどう考えているかは窺い知れないが、三善の中に常にあるテーマなのであろう。そして何より下に引用した《変化嘆詠》に関する文章の中で、おそらくは初めて「不条理」が出現する。

不在へ還ることこそ真なるものの姿であろう。この不条理が、私たちの国では、かくも優しく示されることに、私は感動せずにおれない。
歌ってくださるみなさんの声は、越えがたいこの不条理の谷間を埋めるのではなく、ただ消えるために渡ってゆく風であろう、あってほしい。

三善晃(1979)『遠方より無へ』 , p.154 ,白水社.

「死」がここでは言及されている。「遠い帆」ではたしかに「死」を意味しているわけではないが、しかしこの作品で六右衛門が最終的に「どこへもいけない」というような非到達性に落ちてしまうのは、三善に常に見られる志向であるかもしれない。以下は《遠い帆》に関連して述べたものである。

「よるべない」というのは、それだけで言うと、一種のあきらめに通じますね。だけど本当の「希望」〔中略〕は、まずは「よるべなさ」の「絶望」から探すのではないでしょうか。

丘山万里子・三善晃 (2006) 『波のあわいに ―見えないものをめぐる対話』, p.169 , 春秋社.

絶望の果てに希望があり、そこに愛を見出す三善の姿勢は、第四章第四節第二項で見た通りである。「不条理」とはまさにそのようないままでもあった概念そのものなのである。そしてそのような先で、三善は最後の大規模器楽作品である《三つのイメージ》を書いたのだ。このようにこの期間を彩る最も重要な概念は「不条理」だが、それもまた以前にも見られたものである。

第二項 室内楽作品 ー完成形と子どもへの眼差しへ

まず編成の面から語ることができるのは、変わった楽器の組み合わせが減ったということである。存在しないわけではないが、異なる楽器同士の組み合わせを探った《トルス》の実験は1973年で終わっているし、fl, vn, pfの組み合わせによる《Hommage》のシリーズも1979年までである。それを踏まえると、1970年代で三善の音響ないしは楽器法上の実験は終わったと言えるかもしれない。

しかし一方で新たに出現し、1作のみに終わらなかった作品群もある。それはピアノ連弾またはデュオの曲たちと、子どものためのピアノ曲集である。

前者の初めての試みは1984年の《響象》である。その後も《Cahier sonore》や《響象Ⅱ》と言った作品が書かれ、《Miyoshi ピアノ・メソード:ピアノのための12の課題》にも先生と生徒の連弾が存在し、合唱作品でも連弾や二台ピアノを要求するものがある。連弾について三善は「合奏の必然性」が必要であると述べ、「それ〔筆者注:他者の音楽〕が自分の弾いた音と一体になっている…そう感じるところにアンサンブルの魅力がある」と述べている。これは様々な楽器を組み合わせてきた他の楽器での室内楽作品とは違う。他の人間の音楽という「もの」の声を聞く音楽であると考えても問題ないだろう。

後者の子どものための作品群は1978年の《音の森》からとなるため、1980年よりやや早い開始となる。その後《海の日記帳》や《Miyoshi ピアノ・メソード:ピアノのための12の課題》が書かれるわけだが、そこに子どもへの眼差しがあることはこれ以上語るまでもないだろう。

第三項 合唱作品 ー原始の海

合唱作品は詩の選択がなされるという意味で、作品自体から思想的に読み取れることは純粋器楽曲以上に多いかもしれない。

この期間の三善の作品で最も重要であろうものは《交聲詩 海》ではないだろうか。二台ピアノと混声合唱のために書かれたこの作品は、宗左近の書き下ろしの詩に曲がつけられ、曲名の通り海を題材とする。1970年代の文章から、三善は繰り返し海への憧れを示してきた。「生命 いつまでも」と歌われる海のなかに、三善が生命の原始を見出したことは、《焉歌・波摘み》初演時の解説文が「海は母、波は魂……生者と死者の隔てなく」と締め括られていることからも明らかであろう。

三善は三部作の最後となる《響紋》で、永久に届かない円環の中にいる死者と生者を超えるものとして、子どもを新しい希望と見た。この曲もまた《焉歌・波摘み》と同様、そのような円環を包み込むものとしての海が想起されている。外へは子どもに託したが、自らの内面世界の最奥には「死」の先に海が存在していたと言っても構わないだろう。

それだけではない。この曲は最後にコーダのような部分があるが、そこで詩が再構成され、「ゆめのほのおよ」「ちきゅうよ」「いのちよ」「せかいよ」言葉が繰り返される。「ゆめのほのお」とは海のことであるから、この曲は最後に三善がこの期間で重視した概念の全てが立ち現れてくることになる。その意味からも、この曲はこの期間の創作の中でも重視されるべき作品であろう。

他にも《その日 ーAugust 6》はヒロシマと向き合った作品として四部作に連なる系譜を持つし、木島始の詩を用いた《遊星ひとつ》などは「孤独」が社会と向かい合っているという意味を持つ。特に《遊星ひとつ》は意図したものか、そうではないかは不明であるが、三善の創作意識変遷と曲が響き合っている。このことについては補章で言及する。

また連弾ないしは二台ピアノと合唱という編成を要求する作品がいくつも見られることは指摘しておかねばならない。これが合唱団側の要請によるものなのか、それとも三善自身の判断によるものなのかは今となってはほぼ判明しない。しかし、自身がオーケストラと合唱のための作品をピアノリダクションしたり、またはその逆をしたこともないため、おそらくは三善が必然としたものが多いだろう。

第四項 その他の作品について

全体を通してこの時期は委嘱作品が多いことはここでは指摘しておかねばならないと思う。合唱曲に多かったのももちろんだが、《交響詩 連祷富士》や多数の校歌のように地方からのものも多かった。そのような作品は、1980年以前にはほとんど見られない。地域性を超えた先にこれらの作品があることは、「伝統」の概念を三善が取り込んだこと合わせて、この期間の重要な特色と言えるかもしれない。しかし新たな創作上の意識とは言えないだろう。

第三節 創作意識は移り変わったか

三善は既存の思想や創作意識を打ち砕くほど大きな変化を、この1980年以降では見せなかった。

実際に作品としての創作がなくとも、社会への眼差しがおそらく最も大きいのだろう。その由来たる「もの」への眼差しもさらに広範かつ自在である。また、子どもへの眼差しも深まっている。自らの内面への旅も「海」というすべての始まりを見出すに至った。

だがしかし、やはりこの時代の三善は批評上はあまり新規性を持っていないように感じられる。四部作の新たな語法をもってしても、である。

(終章・補章につづく)


補足
この5章については執筆当時から「終結」よりも「円熟」といったプラスの方向で書いた方がいいと言われてきました。しかしここではその改稿はあえて行なっていません(時間のなさ+戒めとして)

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