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村上春樹『街とその不確かな壁』を読んだ日

東京から甲府に帰る時、電車が残っていれば、鈍行に乗って帰ることにしている。だいたい2時間半くらいの道のり。日曜日は夜8時半くらいに新宿から大月行きに乗った。だんだん人が少なくなってきて国分寺駅で座席に座る。そういえばと村上春樹の6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』、ほとんど読み終えていたそれをガサゴソと取り出して、ちょうど山梨県に入ったくらいだっただろうか。読み終えた。

高校〜大学にかけて、村上春樹が読書習慣の中心になっていたことがある。長編を一気に読み、それからはしばらく何冊か違う作家の本を読み、また別の長編を開いていく。その習慣はわたしの10代後半の主な精神的活動だった、と言っていいとおもう。まるで深海を愛する潜水士みたいに。何回も読み直した「1Q84」は、何かしらの異なる視点を求めてわざわざ洋書版を読んでいたほどだ。

今回のあとがきでも本人が触れていたように、村上春樹が使うモチーフは基本的に限られていて、それらの順序や、装いのバリエーションの中で、新たな物語が作られている。女性を失った男、深い井戸、何かしらの障害を持つ導き手、胸の形が綺麗な女性…だから、なんだかおんなじことを確かめ続けるような感覚が村上春樹の長編にはあって、けれどそのおんなじことは毎日の中で(ものすごい速度で)忘れ去ってしまうものだから、少しだけ間を置いてもう一度それを読むことで、わたしたちは「そのこと」を思い出すように物語に身を委ねていき「ああ、そうだ、そうだった」と気づき直すことができる。

今しがた読み終えた『街とその不確かな壁』のことを振り返りながら、やまなみを抜ける中央本線の車窓から、山に囲まれた甲府のまちが宝石のように光るのを呆然と見ていた。すでにわたしは、いくつかのシーンを忘れてしまっている。けれど同時に、わたしの一部分が、村上春樹の描く「そのこと」に共振してじんじんと暖かな温度をもっていることをわたしは感じることができた。奇妙で、不明瞭で、けれど美しい春の夜の夢の余韻のように。


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