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映画『ボーはおそれている』感想 不安の具現化という笑いの3時間【ネタバレあり】

 一応、ネタバレ前提で書きました。でもネタバレして観ても、予想を覆す理解不能な作品だと思います。映画『ボーはおそれている』感想です。

 不安に苛まれる神経症を抱えたボー・ワッサーマン(ホアキン・フェニックス)は、父親の命日に母のモナ(パティ・ルポーン)が待つ実家へ帰省する予定だったが、その予定は数々の理不尽なトラブルに見舞われ、身動きが取れなくなってしまう。ボーは母親へ電話をかけると、モナはシャンデリアの落下で頭が潰れて息絶えたという報せを受ける。母の怪死を聞いたボーは、混乱しながらも急ぎ実家へ帰ろうとするが、それを阻むかのように予想外の事態が巻き起こる…という物語。

 『ヘレディタリー』『ミッドサマー』の長編2作のみで、ホラー映画の歴史に名を残すこととなった、アリ・アスター監督待望の3作目となる長編映画。運良く、ラジオ番組「アトロク2」の特別試写会での応募が当選して、公開前に鑑賞。その後、劇場公開後にも鑑賞して、2回にわたってボーの地獄巡りに付き合いました。

 『ヘレディタリー』での容赦ない恐ろしさは、『ミッドサマー』でも確実にあったんですけど、『ミッドサマー』にはどこか笑ってしまう要素が随所にあるのが印象的でした。そして今作では、その「笑い」の要素が、恐ろしさよりも前に出ている映画になっています。アリ・アスターがついにコメディ映画への進出を果たした作品といえるでしょう。

 試写会の初見では、周囲がそういう趣味の観客ということもあり、本当に爆笑の渦となっていて、自分も涙出るくらい笑い転げてしまったんですよね。もちろん、声は控えめにしていたのですが、それでも声出して笑っている人が多かったです。それに反して、公開後の劇場で観た際は、周囲は失笑という感じで、世間との大きなズレを感じるものでした。

 作品は、ホアキン・フェニックス演じる主人公のボーが、徹頭徹尾、理不尽な酷い目に遭うというのが主な筋書きですが、とにかくその「理不尽な酷い目」が予想出来ないものだし、現実感が薄すぎて笑ってしまうんですよね。ホラー映画って、劇中の恐怖が自分に起こることを想像して恐ろしくなるものだと思うんですけど、ボーの身に起こることを我が事として捉えられないようなものになっています。本当に「なんか変な夢見たな」という不思議な浮遊感がある恐怖描写になっているんですよね。

 ボーの身に起こることは、我が事とすれば確実にイヤなことばかりなんですよね。水が出ない、クレジットカードが使えない、小銭が足りないという日常的(?)なトラブルから、警察に銃をぶっ放される、車にはねられる、通り魔に襲われる、ティーンの女の子に脅迫される、元米兵に命を狙われる…などなど、ここに挙げた一部を書いているだけで、「なんなんだ、これ?」と思ってしまいますが、これらの脈絡のないようなトラブルが全て一本道で起こるロードムービーになっています。

 そして、これらは恐怖描写として起こっていることではありますが、全部タイミングがコメディ的な「間」で繰り出されているように感じられました。やっぱり意識的に笑えるものとして作っているようにしか思えないんですよね。
 オープニングこそ、強烈な「生まれ落ちる恐怖」を描いているので、どんなに恐ろしいことが起こるのかと身構えてしまいますが、その後の本編での、車にはねられるタイミングも、腕をクロスさせて窓に体当たりして逃げ出す様も、恐いという前に、本当に声出て笑ってしまうものになっています。ホラーはコメディと紙一重であるというのは、よく言われていることですが、その極北のような作品だと思います。

 だからと言って、B級ホラー的なバカにして楽しむような作品とも違い、アリ・アスターなりのアート性もきちんとあるんですよね。『オオカミの家』の監督クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャが参加した劇中劇(というかボーの妄想)シーンのアニメパートは、ドタバタ劇の中で、この部分だけはアンビエント感があり、急に差し込まれるにも関わらず、トリップ的な快感がある映像になっています。

 全4部構成で、各パートのラストで必ずボーが失神するんですけど、夢オチや幻覚オチが一切なく、全てそのまま覚醒して話が続くんですよね。これまでに起こったシュールで理不尽な出来事が全て現実のものであるということを、繰り返し繰り返し表現しているように思えます。
 そしてラストの4部目で、それまでの出来事の真相(といえるのかどうかはともかく)が判明するのですが、あれほど非現実的でめちゃくちゃな出来事を描きながら、ちゃんと説明するという点においても、気が狂っているとしか思えない脚本になっています。ただの妄想や幻覚だったということで逃げても、充分インパクトあるはずなのですが、良く出来たというよりは何か執拗なものを感じさせる練り込み方しているように思えました。

 『ミッドサマー』のホルガ村に近づく場面で、車を映す画面がゆっくりと逆さになっていくのが異界の入り口を表現していると感じたのですが、今作の4部目でも、車のサンルーフに映っている「逆さになった世界」を画面に使用しています。ここはボーがようやく実家に辿り着く直前なんですよね。ようやく辿り着いた実家こそが異界であるとしているように思えます。

 実際、この実家に着いてからの展開が、『ヘレディタリー』的なホラー描写に近い空気感になっているように思えます。ここで描かれるのも「家族=呪い」というものであり、アリ・アスターが執拗に描き続けているテーマが、作家性として出ている部分であるように感じられます。

 ただ、ここまでの道のりがあまりにもコメディとなっているので、ここでの恐怖描写もギャグとして受け止めてしまうんですよね。特に屋根裏部屋に隠されたものの正体なんて、ほぼ小学生が考えた笑いのセンスですよ。呼吸出来ないほど笑えたクソガキだった時代を思い出してしまいました。

 ラストの裁かれる場面は、ピンクフロイドの名作アルバム『ウォール』と、その映画作品の展開を思わせる部分がありますが、「アトロク2」の宇多丸さんのインタビューでは、アリ・アスターはそれを否定しています。だけど、個人的には安部公房の代表作『壁』の第一部『S・カルマ氏の犯罪』を思い出しました。この作品も、主人公がシュールで理不尽な目に遭う不条理小説だったので、ひょっとしたらこっちが元ネタになっていたりして、と妄想を働かせてしまいます。

 そもそも、日本のギャグ漫画的なものとも共通項が多いんですよね。風呂場の天井にいるオッサン(ここ一番笑った)に驚いて、フリチンのまま外に飛び出し→警察に銃を向けられる→車にはねられるという流れなんて、漫画太郎作品の展開にしか思えないんですよ。森の劇団で観劇中に話しかけられた男性に、自分の父親ではないかと問い詰めるシーンも、つげ義春『ねじ式』にある「あなたはぼくのおッ母さんではないですか」というシーンによく似ています。影響があるかどうかは定かではないんですけど、不思議とシンクロしているように思えるんですよね。

 一般的な解釈として、ボーがユダヤ系民族の名前であることから、ユダヤ人が流浪の民であることをモチーフにしているというのがあります。さらに母親との関係性も「ユダヤ民族あるある」という話も聞くので、そういうことなんだろうと思います。
 ただ、それが正しいかどうか、この物語が何を描きたいのかは、正直どうでもよくて、ただシンプルにバリエーション豊かに用意されたシュールな状況を楽しむのが一番だと思います。

 3時間は長くてダレるという意見も、もちろんわかりますよ。ただ各パートが「ちょっと長いな」「飽きてきたな」くらいになり始めるギリギリのところで、とんでもない出来事が起きて、物語が動き、次のパートに向かうようになっているんですよね。この絶妙な匙加減は明らかに計算していると思うし、しっかりと長く感じさせることで、作中のボーが疲弊していくのを観客に体感させるように作っていると思うんですよ(性格最悪…)。

 試写会で初見の際には、リアリティあるかどうかはともかく、全て現実の出来事にしていことに驚嘆したんですけど、再度観た時には、必ずしもそうではないように思えてきました。ボーに起こる出来事は序盤から全て、モナによってコントロールされていたと思っていたんですけど、飛行機に間に合わなくなるトラブルをモナはボーの嘘だと詰っていることからすると、騒音を疑われるご近所トラブルや、荷物を盗まれるところなんかは、仕組まれたものではないということになります。

 この部分も非現実的な理不尽トラブルなので、ひょっとしたらボーの不安神経症による妄想なのかもしれません。そういう考え方が有りになると、その後の受難から、母親の仕組んだものという流れすら、母を恐れたボーの脳内に映ったものだったのかもしれないと思えてきます。

 ボーに何か罪があるかと言われても、どう考えても何もしていないと思うんですけど、ただ「自分で選択をしない」という何もしていない罪というものがあったのかもしれません。呆気に取られてしまうラストのボーは、もう諦めたような穏やかで哀しい表情をするんですよね。あれは初めてボーが覚悟をして「自分の運命を決めた」ということなのかもしれません。

 こうして自分で書いた解釈も、他人が書いた考察も、どれも疑い始めてしまう、観る人を混乱させる映画です。もの凄く笑えるけれども、万人には受けない笑いのセンスだし、とにかく作品としての優しさに欠ける映画だと思います。
 アリ・アスター監督が自身の母親を、この作品試写会に招いて、2人で楽しく観劇したというエピソードが一番ゾッとしました。それでも、アリ・アスター作品はこれからも観続けたいと思わせられました。

 次作もホアキン・フェニックスが主演だそうなので、それまで首を長くして待ちたいと思います。新たなカルト映画として、後世まで語り継がれる怪作です。


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