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悪習    (t)

洋子はガスレンジ下の扉を開けると、古風な書体で「千鳥酢」と書かれた瓶を取り出した。右の親指で蓋を起こし、そこに鼻を近づける。
思わず、というのだろう、顔が綻んでしまう。
そしてその中の液体を一気に呷った。
喉の壁を震わせて、液体が食道へと流れ込む。
全身が、指先までがいきなり浮遊するように緩んだ。

フライパンで踊っていたモヤシがレンジに零れる。
「もうダメ」と声が漏れてしまった。
フライパンに合わせておいた調味料を入れると、立ち上る湯気とともにいつかの潮風が吹いた。
「海」
思考と発声の制御が利かない。
「行きたいのか?」
いつもと同じ誰かの声。
「あんなとこ。誰が行くか」
「出かけた方がいい」
「ふん、出かけてるよ。買い物に」
「子どもたちと一緒に遊びに行けってことだ」
「遊びたくなんかないね」
洋子の目から、やるすべのない黒い涙が溢れだした。

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