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手のひらの恋

手のひらの恋         本文【1175字】

身軽な自分の幸せを思った。
何気なく、町ではなさそうな行き先の長距離バスにフラっと乗り込んだ。三千円少々のチケット代だから、それなりの遠距離だと想像がつく。チケットにも行き先の表示はなかった。
とにかくここではないどこかに行きたかった。
 
ターミナルから高速に乗ったバスは西に向かった。そこまでは覚えている。
 
高原のバス停にはまだ浅き春の風が吹いていた。ややもすると冬らしささえある風景に目をやる。思ったような菜の花は咲いていなかった。一面の黄色。そこにちらほらピンクの花が見える。そんな風にバスの夢は描いていた。
 
すっかり目を覚まさせてくれた風の吹く方向に足を向ける。小さな丘の尾根の突端のようなところに暖簾を見つけ、そこに腰を下ろすことにした。
「いらっしゃいませ」
笑顔のいい小柄なご主人が自らお出迎えだ。
背中を丸めて靴の紐を解いた。
他に宿泊客はないらしく、一番眺めのいい角部屋に通された。
ああ、ここに一面の菜の花か。窓際に設えられた木のベンチに陽がたまっていた。
 
リストラの筆頭に名前が上がったとしても当然かもしれない。なにせ、こうやってすぐに逃避できる身軽な身の上だ。仕事の割には高給をいただいていた気持ちもある。使えない高学歴。私の背中にはそう書いてあるに違いない。
 
ノックの音に「はい」と返事を返した。
女将さんは朗らかな人だった。しかし先ほどのご主人とはなんとなく毛色の違いを感じる。あれは番頭さんだったか。
「お仕事ですか?」
「あ、いいえ。ふいに思い立ってさっきのバスに飛び乗りました」
「あら、よろしいですね。ゆっくりしていってください」
「花が咲くのはいつ頃でしょう」
「あと一ヶ月くらいでしょうか。下の野原にネモフィラが咲くんですよ」
いつの間にか女将は隣に立っていた。やわらかい香りがする。
「こちらはうちが管理しています」女将は裾を左手で押さえて指差した。「あちらの土手に梅が見えますか?」女将はまだ知らぬ花の香りがする。「今は白梅ですから、もうじき桃が咲き、桜と次々に咲きます」

小川の音、せせらぎが聞こえた気がした。
水底の茶色い小石がうねうねと光っている。ゆらめく水に手を浸すと、清い流れは手のひらをするすると乗り越えて行く。舞うような群生から少し離れた一本の水草がピンと背筋を伸ばしている。
水面に桜が舞い落ちた。
華やぐ桜は湧きたつ雲のように柔らかだ。ここで眠りたい。そう思った。
 
我に返ると、女将の「これからがいい季節なんですよ」という弾む声が聞こえた。
握っていた右の手を開くと桜の花弁がひとひら、手のひらからふわふわと部屋を舞った。
「女将さん、私をここで雇っていただくわけにはいきませんか」
「はい。これから忙しい時期に入りますが、よろしくお願いします」

私は自分の言葉に呆気に取られたが、女将さんの用意してあったような返答にも、いささか驚いた。
         了


山根さん
今回もよろしくお願いいたします。


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