見出し画像

【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 1

ヒジュラ
 
   アラビア語で“移住”を意味し、
 
   特に ある人間関係を断ち切り、新しい人間関係を構築する というニュアンスを持つ


 ――どれくらいのあいだ、彷徨さまよっていたのだろう。
 茫漠ぼうばくたる風景が続いていた。
 歩いていたのか、眠っていたのか、それとも乾き切った砂混じりの風に、ただただ吹き流されていたのか……。
 荒涼とした大地のただなかで、私に道を指し示してくれたその人、、、の声があまりにも優しかったので、言われるがまま前へ進んだ。ただ闇雲に揺れていた羅針盤の針が一気に方向を定め、風が背中を押してくれたかのように、気がつけばその街の入り口に立っていた。
 たったひとつの入り口に立つ門番は、胡散臭そうに私を見たが、あの人、、、が教えてくれたひとつの言葉をそのまま唱えると、途端に引き下がり、通してくれた。……とうてい歓迎する目つきではなかったけれど。
 
 城壁の内側には、ひっそりと静まり返った街があった。
 城門を通り抜けるとすぐに大きな広場があり、そこは日干し煉瓦の乾燥場になっているようだった。縦横に何百と並べられた砂色の素朴な長方体の列の一角では、たくさんの男たちが汗まみれになって作業に精を出している。広場の奥には休憩所のような場所があって、テントが張られ、テーブルと椅子が置かれていた。
 ――私はとても疲れていた。
 すぐにでも体を横たえ休みたいところだったが、作業をする男たちは私の存在などまるで気にも留めていない様子で、自分たちの仕事を続けていた。例え視線を一瞬こちらに向けることがあっても、まるで無関心といった感じで眉ひとつ動かさず、すぐに木製の型に泥土を詰め込む自分の手元に視線を移してしまう。おそろしく冷たい態度だった。
 仕方がないので私は広場を横切り、休憩所のほうへ向かった。そこになら誰かいるかもしれない。
 テントの陰に入ると、強い陽射しが遮られ、急に涼しくなった。私はそこにある椅子のひとつに腰かけた。疲労が足元からじわじわと上ってきた。
 思えば、乾いた灼熱の道を、ずいぶん長いこと歩いてきたのだ。あまりにも長く彷徨い続けたので、頭の芯が痺れていた。疲労の状態にも慣れ過ぎてしまっていて、自分の体が大丈夫なのか大丈夫でないのかの判断もつかなくなっていた。……いや……、と、言うより、何が、どうなろうと、どうでもよくなっていたのだ。
 
 私が席に着くとすぐ、奥のほうから女性が出てきた。この休憩所で働く人らしい。身のこなしからしてまだとても若いような印象を受けたが、正直言うと、それぐらいしか彼女のことを叙述する材料はなかった。
 女性は、頭の先から足の先まで、すっぽりと真っ黒い布を被っていた。
 それだけでなく、ほんの少し目が覗く程度の隙間を開けているくらいで、額も鼻から下の部分も、すべて黒い布で覆い隠していた。
 その出で立ちに、私は呆気に取られて言葉を失ってしまったのだが、彼女にとってはそれは日常のことらしく、何ということはないもの慣れた様子でこちらに近づいてきた。
 女性の頭部の、口の部分と思しき辺りから、何か音が発せられた。それは私には理解できない言葉だった。
 よく見ると、黒い布の袖の部分から、何か光るものがはみ出している。それはどうやら、銀色のポットのようだった。
「お茶を飲みますか?」
 彼女はそう言っているらしかった。その声はとてももの静かで、極めて控え目だった。けれど、そうでいて、言葉がわからなくても彼女が私という相手に真摯に接しようとしてくれているのが伝わってくるような、そんな声だった。
 私は、頭を下げて「はい」という意思表示をした。頭を低くしたことで、急に眠気のようなものに襲われて、一瞬気を失いそうになった。
 女性は、慣れた手つきで銀色のカップにお茶を注いだ。たったいままで火にかけられていたのだろう、注ぎ口から流れ出る澄んだ緑色の液体は、盛大に湯気を上げた。
「ありがとうございます」
 私は私のわかる言葉で言った。彼女はいったん、その言葉を受け取ったが、何となくニュアンスを汲んだようではあるものの、その音の本来の響きは彼女の姿を覆い隠す黒のなかに吸い込まれて消えてしまった。
 女性が奥のほうへ戻っていくと、私はそのお茶をゆっくりと飲んだ。熱いお湯で舌を火傷しないように、注意深くふうふうと吹いて冷ましながら少しずつすすった。
 私の体は自分でも驚くほど乾燥していた。喉元を滑り降りていく液体の感触でもって、初めて私は、自分がかなり前から脱水状態であったろうことを知ったのだ。
 甘い芳香に脳天まで突き抜けていくような爽やかさを併せ持つそのお茶は、私の体に再び生気を吹き込んでくれたようだった。もう何日、何も食べず何も飲まずにいたのだろう?
 ―――何も思い出せなかった。
 お茶で温まった頭の芯が、また痺れてきた。疲労感のあとに、今度は脱力感が体を支配し始めた。
 そのとき、またあの女性がお菓子を持って戻ってきた。そして私の様子を見ると、どうやらあまりいい状態でないことに気づいてくれたらしい。足早に駆け寄ってきて、何か早口で言った。むろん、私にはわからない。
 
 ……目の前に、ある微細な粒子が躍り始めた。いつか、どこかで見たことがあるような……。それは、明らかに生きて動く光の明滅だ。光の点描画は、未だ見ぬ異国の街並みを私に垣間見させる。天高く伸びた塔、色とりどりの建物、賑やかな大通り……。
 それは、刹那の祭りのように、一瞬煌びやかに弾けて揺れたかと思うと、途端にフェイドアウトする。上下左右から闇が忍び寄り……。
 ――そして、暗転。
 
 
 ―――密やかな声が、どこからか聞こえてくる。足音を立てずに歩く人々の、衣擦れの音も。声は私に向かって、かろうじて聞こえるかどうかというボリュームで囁く。それは私がここに辿り着く前から、何度も折りに触れて聞いてきた、馴染みのある声に似ていた。
「――お前にそれができると思っていたのか。夢を見すぎたんだ。とうていできもしないことを、お前はやろうとした。手の届くはずもない場所に行き、分不相応な振る舞いをしてきたんだ……」
 月も星も隠れた真っ暗な晩に、畑の作物から伸びたつるの葉の上にそうっと発露するように、言葉たちは次々に浮かび上がった。沸々と生まれ続ける夜露はいつしかその空間を埋め尽くし、私のまなじりにも降りてきた。
「……あなたは休むためにここに来たのですよ……。休んでいいのです。ここに居ていいのですよ……」
 今度は別の声がこう囁いた。それはもう一つの声に比べると遥かに優しく柔らかく、まるで薄く藻の張った古い池に一枚の枯葉が落ちる、かすかな音のようだった。
 私の眦に発した夜露が、耳の穴のなかに流れ落ちた。
 
 
 薄闇――。
 意識が、夢すらも見ないもっとも深いところから段々と浮上してくるに従って、私の両目はわずかな光をとらえた。
 けだるい気持ちで重い瞼を開けると、ぼんやりと砂色の天井が見えてきた。
 耳のなかが冷たい。
 頭を動かすと、ガサガサとシーツの擦れる音がした。どうやら私はベッドの上に寝ているらしい。
 体中がひどく重たく感じられたが、頑張って上体を起こしてみると、そこは小さな部屋だった。足もとのほうに窓ガラスの入っていない小さな窓がひとつあって、右側の壁のほうに、古い木でできた扉があった。その扉の横には同じぐらい古い木でできた箪笥たんすが置かれていて、三段の引出がついていた。
 四方の壁は天井と同じ砂色で、どうやらそれは日干し煉瓦で作られた建物のようだった。広場で見たあの男たちの姿が思い出された。
 ふと、箪笥の上板の上に何か置いてあるのが目に入った。それは私のために置かれた食べ物らしく、白い楕円形の皿の上にバナナが三本載せてあった。その隣には水差しと伏せたグラスがあった。目が覚めたときにいつでも摂れるように、という気遣いなのだろう。
 小さな部屋のなかは、静寂に包まれていた。まずまったくもって人の気配がしない。窓にガラスが入っていないのだから、外の物音が聞こえてきてもよさそうなものなのに、それもない。
 私はもう一度横になった。まだ体がだるくてしかたがなかったのだ。
 右半身を下にするようにして体を横たえたとき、またシーツの擦れる音がした。けれど、そのかすかな音さえも、すぐに四方の壁に吸い込まれて、あとには何も残らなかった。まるでこの砂色の建物の材質が、街じゅうのすべての物音を吸収してしまうかのようだった。
 私は沈黙のなかで、身じろぎもせずじっとしていた。自分の存在が、まるで虚空に浮いているように心もとなく感じられたが、不思議とまったく怖いという気持ちは湧いてこなかった。
 ――そのとき、またあの声が聞こえた気がした。蛙が水面を蹴って進むような滑らかさで、その声は言った、
「ここで休んでいいのですよ……ここに居ていいのです……」
 私の視線の先には、白い皿の上に置かれたバナナがあった。湾曲した部分をこちらに向けて三つ重ねられたその果実は、折り重なり時を止めている人間のむくろのように見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?