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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 8

 季節が変わり繁忙期になってから、街には人の出入りが多くなっていた。毎日、色々な土地から行商人や観光客がやってきた。たったひとつの城門を通って街に入った彼らは一時的に街の人口を増やし、それぞれの目的である商いや街の名所巡りにいそしんでいた。行商人の大部分は長期滞在者で、そのなかにはほかの観光客に交じって宿屋エスメラルダに部屋を取る者もあった。
 宿に滞在する行商人のなかに、二人の幼い息子を連れた男がいた。ワディと呼ばれる枯れた渓谷から来たその男は、その地でしか採ることのできない上等の蜂蜜を売りにきたのだと言う。彼らの居住する地域では、“枯れ谷”とは言え、地中深くを這う伏流水と、年に一回大量に降る雨のおかげで意外に肥沃な土地を有し、この街の市場などで売られる野菜や果物は、ほとんどそこから運ばれるものだということだった。私がいつか食べたあのバナナも、もしかしたら“枯れ谷”から来たものだったかもしれなかった。
「このはちみつはねえ、オレ・・が巣箱から採ったんだよ」
 自慢気に、子供らしい高い声で弟のアフマドは言った。今年十歳になった彼は、兄や大人たちに習いながら、この街にやってくる直前に初めて蜂蜜採りの作業を経験したのだそうだ。丸筒の浅いアルミ缶の蓋を開けて見せる蜂蜜は、六角形の格子状の蜜蝋ごと美しく丁寧に詰められていた。
「これは俺が詰めたやつだろう。お前のは、こっちじゃないか」
 十四歳になる兄のサーレムが笑いながら言った。アフマドはムキになって、
「ちがうよ。オレ・・が詰めたんだもん!」
 と反抗した。聞かん気の強い性格らしかった。彼らが到着したときちょうど居合わせた女将は、この珍しい小さな宿泊客を喜んで、父親が受付で手続きをしているあいだ、私も加えて荷ほどきを手伝ったり、兄弟の相手をしてやったりしていたのだ。彼らの言うことは女将がすべて通訳してくれた。
 見たところ兄弟はとても仲が良くて、互いにいつもくっつき合っているようだった。特にまだやんちゃっ気の残る弟のアフマドを、優しく穏やかな性格の兄サーレムが見守っているという印象で、強く自己主張をしてその場の中心人物になりたがる弟をいさめる兄は、大人びているというよりも、少しシャイな性格のように見えた。
 それでも二人ともまだ子供らしさが残っており、彼らの到着は宿屋エスメラルダに一気に明るい雰囲気をもたらした。
 そのころ、心配事を抱えていた私には、これは一服の清涼剤となった。……と言うのも、先だっての巡礼の件で、問題が発生していたからだった。
 イマームの大説法のあった次の日から、巡礼の随行希望者の応募受付が始まっていた。それは早い者勝ちといったものではなくて、公正な審査の上で合格者を決めるとされていた。私はエスメラルダの女将とハシムさんに相談して、できるだけ早く応募書類を提出するよう“闇夜”を説得してもらった。“闇夜”は、いざ応募が開始されるとやはり萎縮してしまって、書類を書くことすらためらっていたのだった。女将とハシムさんとで代わる代わる説得に行ってもらって、ようやく四日後に、“闇夜”は応募書類を提出した。ところが街の会議所に書類を持っていったその日から、“闇夜”は自分の部屋に籠もり、日干し煉瓦工場に姿を現さなくなってしまったので、急遽エスメラルダの女将が自分の姪を代理のお茶係として差し向けなければならないという事態が起こっていた。……私は嫌な予感を覚えながら、“闇夜”の部屋へ行ってみた。
 その予感は的中した。
 聞けば、会議所から帰る途中、“闇夜”はあの“邪眼”の女のひとりに出会ったのだった。その女は、ほかの“邪眼”たちを代表してその黒々とした念をひとつに集めたような嫌悪と脅しのメッセージを彼女に対して呟いたらしい。その言葉の呪いにかかったようになって、“闇夜”はすっかり体調を崩してしまい、やっとの思いで自分の部屋へ辿り着きはしたものの、それからいままで体の震えが止まらないのだと言う。
 やはり“邪眼”の仕業だった。
 かつて私が想像したように、昼間の界隈を“闇夜”が歩いたりすれば、女たちは(特に狭量な性質を持つ“邪眼”の女たちは)どんな反応を示すかといったことが、現実に起こっていたのだ。平穏に、波風立てず数年を過ごしても、彼女たちの感情までは変えることができなかったようだった。
 ――そして、これはもともと“闇夜”がもっとも恐れていたことだった。街の人々のねたみやそねみ、どころか、いかなる形での不興をも買いたくなかった、怯えて物陰に潜むようにして暮らしてきた彼女にとって、今度の出来事はこれ以上ないほどの大きなダメージで、それゆえあんなに勤勉に働いていた職場にも出られなくなってしまったのだった。
 “闇夜”の粗末なベッドで横に座り、体の震えが止まるまで背中をさすってやりながら、私は自分が何かとんでもないことをしてしまったのではないかという思いに駆られていた――。
 
 巡礼随行の審査は、粛々と進められているようだった。日々人数がひとり増えたとか減ったとか、様々な噂が囁かれた。“闇夜”が確実に一行に加われるようにと祈ることはできても、先行き不透明な不安に、つい伏し目がちになってしまう私をエスメラルダの女将は心配してくれた。女将は少しでも気が紛れるようにと、宿泊客たちが食事をとる大食堂で夕食をとるよう、私に勧めた。普段は女将と一緒に彼女のプライベートな台所で食べていたのだが、大食堂のほうに行くと、そこは世界各国から集まった多くの客たちで賑わい、華やかな雰囲気に包まれていた。女将は私と一緒にテーブルについた。
 給仕係の女性がお茶のポットとカップを運んでくると、隣の席に、あの“枯れ谷”から来た蜂蜜売りの親子が座った。女将と父親は挨拶を交わし、女将は少年たちに優しく話しかけた。兄弟は、はにかみながらも人懐っこそうに笑って返答していた。
「今日は商売が上手くいったらしいよ」
 女将は明るい声で私に教えてくれた。
 私の顔の上に一点の曇りを見つけた父親が、女将に何か尋ねた。女将があれこれと説明しているあいだ、兄弟は珍しそうにじっと私を見ていた。見知らぬ国から来た、自分たちとはまったく姿形の違う私の様子を食い入るように見つめる彼らの四つの瞳は、好奇心いっぱいにキラキラと輝いていた。その澄み切った瞳の清らかさに私はどぎまぎしてしまったが、二人のあまりの可愛らしさと純真な様子につい自然と口元がほころび、いつの間にか心からの微笑みを返している自分に気がついた。
 女将の話を聞き終えたとき、口を開いたのは意外にも兄のサーレムだった。何でも彼の言うには、最近学校の授業で先生から嘆願書のことについて教わったのだそうだ。先生の話では、ある国で罪を犯したとされ自由を奪われている人のために、地域の住民が署名を集めて当局に提出し、結果その人は無罪を勝ち取り自由の身になったという出来事があったという。“闇夜”の場合は罪人とされているわけではなく少し事情は違うが、随行者の選定員の心に訴え印象を良くするために、住民の署名を集めて見せるというのは、効果的な方法かもしれなかった。
「フム、それはいい考えかもしれないね」
 女将は言った。
「街の人間がどれほど彼女のために動いてくれるか、少しリスクはあるけど、賭けてみる価値はありそうだ」
 すると、元気のいいやんちゃ坊主のアフマドが、
オレ・・が一番署名を集めてきてやるぜ!」
 と意気込んだ。一同に笑いがあふれた。
「よし、やってみよう。あたしも協力するよ」
 女将は言った。
「いい方法を教えてくれてありがとう、サーレム」
 私は幼い兄に言った。サーレムは何も言わず、ただ恥ずかしそうに笑っていた。
 ――翌日、私は早速日干し煉瓦工場に出向いて、ハシムさんにその話をした。人情にあついこのおじさんは、ひとつ返事で賛成してくれた。
「あの子は本当にいい子さ。本当は息子の嫁にもらいたいぐらいなんだ」
 ハシムさんはそう言って、日干し煉瓦工場の男たちから一人でも多くの署名を集めることを約束してくれた。彼らはこの数年のあいだに基本的に“闇夜”のファン・・・になっていたので、多くの協力が期待できそうだった。
 宿屋エスメラルダの界隈と、女将の顔が利く市場の人々や観光協会のメンバーたちは、ひとまず大丈夫そうだった。父親に特別の許可をもらって、署名用紙とペンを携えて朝早くから宿を飛び出して行ったサーレムとアフマドも、きっと一定の成果を持って戻ってくれるに違いない。
 問題は、私だった。ここの言葉がわからない私に、いったい何ができるだろう? ――瞬間、不安になって、またあの夜露が戻ってきそうになった。私は目を閉じ、必死で助けを求めるあの文句を唱えながら呼吸を繰り返さなければならなかった。
 ……逡巡するばかりで一日目は終わった。それでも、夕刻それぞれが持ち帰った署名の数は予想以上のもので、明るい先行きが広がった。なかでも宣言の通り、アフマドの集めてきた署名の数は、十歳の子供にしては驚異的だった。街の人々はおしなべて子供に弱かったというのもあったが、アフマドのどうにも愛らしい外見に加えての押しの強さ、凛とした姿勢が功を奏したのだろう。彼はまた、その幼さにも関わらず、人を納得させる上手な話し方を心得ていた。これは、署名を持って集まった夕食の席で、彼の父親と兄の口から発せられた言葉だった。二人とも、この子供の良い点を認め、口ぐちに褒めた。アフマドは有頂天になって、一日の奮闘のご褒美でももらうように、頼もしいほど旺盛な食欲を見せた。
 そのとき、ハシムさんが仕事帰りに日干し煉瓦工場で集めた署名の束を持って宿に現れた。数えてみると、それはアフマドが集めたものの二倍の数に達していた。
「これでもまだ半分だ。今日は休みの奴もいるから、明日はもっとたくさん集めてくるよ」
 小さな英雄は、突然二位に転落したことにご立腹だった。アフマドを囲んでまた一同に笑いが起こった。そして彼には、明日はもっとたくさんの署名を持ち帰ってやろうという闘志が芽生えた。
 翌朝、私は“闇夜”の部屋を訪ね、病状を見舞った。恐怖から来るあの震えは何とか治まってはいたものの、まったく食欲が湧かないらしく、この数日ろくに食べていなかった。私は携えてきた果物となつめやし・・・・・を少し口に含むよう説得し、水を飲ませた。彼女は憔悴しきっているように見えた。
 私は焦った。それで、いま私たちが彼女のためにしていることを伝え、希望を持たせようとした。
 ……昨日から始めたばかりだけれど、皆たくさんの署名を集めてきてくれている、思ったより早く集まりそうだから、安心していて……。
 私は話した。すると力なく横たわっている彼女のまなじりから、ひと筋の涙がこぼれた。彼女は、神の名を口にしたようだった。
 “闇夜”の部屋からの帰りに、ハシムさんに会うために日干し煉瓦工場に寄った。私にできることは何かないか、意見を聞きたかったのだ。
 まだハシムさんは休憩時間になっていなかったので、テントのなかで待たせてもらうことにした。席に座ると、“闇夜”が倒れた日から代わりに出ているエスメラルダの女将の姪がお茶の道具を持ってやってきた。彼女は“闇夜”よりもさらに若く、伯母ゆずりの生き生きとした碧色の瞳が印象的だった。去年まで大学に通っていて言語学を学んでいたとのことで、私と女将の話している言葉を、彼女も話すことができた。
「ハシムさんは、もう三十分もすれば休憩に入れると思いますよ」
 彼女もまた“闇夜”と同じような黒装束で全身を隠していたが、顔だけは出していて、その美しい瞳とふっくらと健康的に盛り上がった紅色の頬を見ることを男たちに許していた。大学で学んだことに裏打ちされた一定の気位の高さがその表情や居住まいからうかがわれたが、それはむしろ彼女を理知的で毅然とした女性に見せることに一役買っていた。そのおかげで、男たちに囲まれた環境に突然入ってきても、誰からも舐められることなく、何のトラブルもなしでいられるようだった。
 ハシムさんを待つあいだ、彼女とは色々な話をした。彼女の名前はザイナブといい、女将の弟の第一子に当たるということだった。ザイナブはいまのお茶出しの仕事の手順についてひと通り私に説明し、水汲みなど意外な重労働もあって思ったより大変だったと言った。彼女は普段は宿屋エスメラルダで女将を手伝っていたので、接客をするのには慣れているとのことだった。
 ザイナブはまた、事務仕事も得意で、宿屋の経理もときどき手伝うという。宿屋の経営自体にも興味があり、街を出たり外国に行ってしまったりしてひとりもこの街に残っていない女将の子供たちに代わって、女将さえ認めてくれればゆくゆくは跡を継ぎたいとも考えているそうだった。年の割に驚くほど具体的に将来設計をしている彼女に、私は感心を隠し得なかった。
 そのとき、作業員の交代時間がきて、ハシムさんがテントに入ってきた。例によってナディルも一緒だった。彼はいったん席に着くや否や、何かを思い出したように立ち上がって、テントの奥のほうに入っていった。
「実はね、あいつが面白い物を作ったんだ」
 ハシムさんは目配せした。
 戻ってくるとき、ナディルは片手に一つの紙の束を持っていた。そして顎をしゃくりながら私の前に差し出し、見ろと言う。
 それは、文字で埋め尽くされた“ビラ”だった。全部ここの言葉で書かれていて私には読めないが、それでも活版刷りの大小の文字が躍る紙面には、政治のプロパガンダのように心に訴える迫力があった。ナディルは眠そうな眼を上目使いにして、何か言った。そのアングルだと、彼の眼ももはや眠そうには見えず、ある種の力強い光を放った。
「これは、俺が書いてデザインもしたビラだ、と言っている」
 ハシムさんは言い、その内容を翻訳してくれた。
 
 
 
“ 神はご覧になっている、すべてのことを。
  悪行より、善行を施そう!
  人を羨んだり、妬んだりしてはいけない。
  それよりも、自分より不幸な人を助けよう!
  神はお喜びになる、悪行より善行を行う者のことを。
  徳を積もう、来世でもっと幸せになれるように!
  恵まれない人を引き上げてやろう、
  神はご覧になっているのだから……。
  悪行より、善行を施そう!
 (そして最後に……)
 “闇夜”の巡礼随行のための署名に、どうかご協力ください。 ”
 
 
 
「これを街で配ろうと思う」
 と、ナディルは言った。彼はいまとても真剣な顔つきをしていた。彼は本気で“闇夜”のことを想っているようだった。昨晩徹夜をして街の人に呼びかける文句を考え、原稿にデザインを起こし、今朝一番で印刷屋に走り込んでこれだけを刷ってもらったのだそうだ。
 私は、これだ、と思った。これなら、言葉を話せない私でも、街頭で配ることによって人々に意志を伝えられる。誰もが“闇夜”のいきさつと彼女がいま置かれている境遇を知っているのだから、我々が何を言いたいのかはすぐにわかってもらえるに違いない。その上で署名を募れば、あるいは上手くいくかもしれない。
「ナディル!」
 私は叫んだ。あまりの大声に、彼がビクッとしたほどだった。
 私は印刷代を払い、いま彼の手元にあるビラを全部受け取った。
 いったん宿に戻った私は、女将にナディルのビラを見せた。女将は感心したような表情を見せた。そして、
「ここまでやってくれる人がいるなんて、“闇夜”も捨てたもんじゃないね」
 と言った。
 私は女将に頼んで、幾つかの役に立ちそうなフレーズを教えてもらい、それを丸暗記した。相手との会話が成り立つとまではいかないだろうが、片言でも何か声を出したほうがより効果的かもしれないと思ったのだ。
 ――夕刻を待って、私は市場へと続く表通りに出かけた。一日のほとんどの時間、閑散としていて、時期的に観光客が歩いているくらいしか人気を見出せないこの街でも、この時間帯だけは、市場へ夕食の材料を買いにいく人や、買い物を済ませ食材や生活用品を下げて家へ戻る人で賑わう。女たちは相変わらず全身真っ黒な衣装に身を包み、音を立てずにひっそりと歩いていた。
 私はまず、威厳を示しながらのっしのっしと道を歩く、買い物帰りの年配の男性に近づいた。彼は押し出しのいい美男子で、理屈のわかりそうな知的な目をしていた。
 ……恐る恐る差し出したビラをちらっと見ると、男性はそれを手に取って読み始めた。ナディルが目につきやすいように強調文字を使用した部分を見るとき、男性にしては長過ぎる駱駝のような睫毛が上下に動いた。
 次に、彼は私の顔を見た。一見して外国人だとわかるはずだった。“外国人がなぜ?” というように、いぶかしげな表情を浮かべ始めた男性に、私は間髪入れずに言った、
「苦しんでいる“闇夜”のために、どうか署名をお願いします」
 ――ナディルのビラの文句に賛同したのか、外国人である私がつたないながらも彼らの言葉を喋ったことに好感を持ってくれたということか、とにかくその男性は、署名をしてくれた。私はほっと安心して、同じように、道行く人たちに次々とビラを渡し、署名を頼んだ。一人が足を止めてくれたあとはより簡単で、何が起きているのかと興味を持った人々がどんどん周りに集まってきた。私はビラを配ったり回し読みしてもらったりしながら、
「“闇夜”の巡礼随行を叶えるために、どうか署名にご協力下さい!」
 と叫び続けた。
 “闇夜”のことについて、平素から気にかけていたと思しき人の数は意外に多く、善良そうな様子の人々が次々に署名用紙を手に取り、そこに自らの名前を記していってくれた。
 気がつくと署名の数は数十名に上っており、自分の名前を書き終えた人があとからやってくる人たちにビラを見せて話をしてくれたりしたので、時間の経過とともにその数はますます膨らんでいきそうだった。
 私が手応えを感じ始めていたそのときだった。
 フワッ、と黒いベールが、からすの羽根のように不吉な風をはらんで私の視界を遮った。ふと見ると、険のある女の顔が、憤怒の形相を呈して目の前に現れた。間近にある女のその眼は血走っていて、絶対に承知しないといった凄みを効かせながら私に迫ってきた。邪眼だ。しかも女は、周囲の喧騒に紛れて、わざとほかの人には聞こえないようなトーンで、私の目を見据えたまま、何かまくし立てていた。私が公衆に対してものを言ったので、言葉がわかると思ったのだろう。……女の呪詛のような言葉を聞いているうちに、段々と、この街にいるほかの邪眼の女たちの想念が私の耳に集まってきた。それは底のほうからせり上がってきて、しつこく残酷に責め立てる、慈悲も寛容もない排他的な憎悪の塊が起こしたうねりだった。邪眼の瞳には、とうてい勝てそうもないと思わせる、不気味で暗澹あんたんとした底知れぬ魔力が備わっていた。私はまたもや体が硬直し、恐怖に支配されてパニックを起こして、彼女らに屈服してしまうのではないかと思った。
 ―――でもここでいま、私は負けたくなかった。
 すんでのところで踏み止まると、今度は逆に、彼女らの傲慢さと頑迷さに、腹の底から怒りが込み上げてきた。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ! 神様は全部見てるって言ってるじゃないかッ! このビラを読んでごらんよ!」
 なりふりかまわず、気がつくと大声で叫んでいた。自分にしかわからない言葉だったが、かまうもんか。私はビラを女の顔に押しつけるようにして、ナディルの書いた文句を指差して迫った。
 ――そのときの私は凶暴ですらあり、女に喰ってかかりかねないぐらい激昂していた。そして同時に、意外なことに気がついた。……驚いたことに、そのとき私の原動力となっていたものは、あの“夜露”なのだった。私の弱いところをさいなんでくるはずの私のなかの敵は、いま全面的に味方となって、邪眼の女と闘っていた。
 ……気迫で勝ったとでもいうのだろうか、あるいは神様に見られていることに気づいて恐れを成したのか? 邪眼の女の眼のなかから悪辣あくらつな色が薄れてゆき、今度は反対に気弱そうな表情が表れた。そして、女の眼の色がほかの多くの善良な人のそれと同じ色に戻ったとき、街じゅうから押し寄せていた強烈な想念も急速にパワーを失い、空中に掻き消えていった。
 女はおもむろに手を伸ばし、ペンを取って署名用紙に自分の名前を書きつけた。


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