見出し画像

【長編小説】 抑留者 5

 尚文は、祖父のシベリア時代の話を熱心に聞いた。聞くうちに、祖父の過去にこびりついている過酷な体験や悲惨な思い出を、少しでも何か形のあるものにして、光の当たる場所に差し出したいという思いが湧いてきた。
 尚文は話の腰を折らぬように、その場では相槌あいづちも挟まずメモを取ることもせず、すべてを心のなかに刻んだ。話をするときの祖父の表情や焼酎の気でむせる様子も、事細かにらすことなくその揺るぎない記憶に書き留めた。いまは遥か遠い時代の、遥か遠い極寒の土地で起きたたくさんの凄惨な出来事が、尚文の心の奥のノートに、火で焼きつけるように刻まれていった。
 そして夕食を終えて自室に戻ると、尚文はパソコンを立ち上げて、いま聞いてきたばかりの祖父の話を、何ひとつ洩らさぬよう気を配りながら、テキストに書き起こしていった。そして自分のブログを立ち上げ、シベリア抑留者の体験談として少しずつ公開していった。

 祖父の話を聞いていくにつれ、尚文は「実感として、それは実際どんな体験だったのか」と思い始めた。そして、当時の祖父たちの暮らしに少しでも寄り添ってみたいと考えるようになった。
 その晩、尚文は「ちょっと腹を下しているから」と時絵に嘘をつき、翌日は自分の食事を自分で用意すると言った。東京で独り暮らしをしていたので、自炊の経験はある。
 次の日、朝五時に起きると、冷蔵庫からキャベツを出して一枚を半分に切り、それを細かく刻んで水二百ミリリットルとともに鍋に入れて火を点けた。鍋を沸かしているあいだ、棚から涼太の食パンを失敬し、六つ切りの一枚を半分に切った。祖父たちがシベリアで食べていたのはライ麦でできた黒パンで、その味や食感は想像すらできないが、ここでは手に入らないため、いたしかたなく柔らかい食パンで代用とする。
 キャベツを入れた湯が沸騰したところで、塩をひとつまみ入れる。スプーンにすくって味見してみると、キャベツ風味の塩味の湯、といったところで、まろやかさはあるが、まるで病人の回復食のように味気ない。こんな感じの食事が毎日続けば、間違いなく栄養失調になるだろうと思った。
 尚文はそれをマグカップに入れ、生のままの食パンを一緒に持って、自室に戻った。
 そして、パソコンを立ち上げるあいだ、ラーゲリで抑留者たちが朝食を摂っているところを想像しながらそれらを味わった。消費者ニーズを満足させるレベルで作られている現代の日本製の食パンは嚙めば嚙むほど味が出て美味しく感じられたが、キャベツと塩のみのスープを飲んでいると、気が滅入ってきた。ただ体だけはやけに温まって、真夏の朝、大量に汗をかいた。
 食べたか食べなかったかわからないようなその朝食を終えた尚文は、パソコンのブラウザを開いて自分のブログをチェックした。開設以来、予想以上に反響があり、読者はあっという間に四百人を越えていた。肯定的なコメントも否定的な意見も書き込まれていたが、それだけの人数がシベリア抑留に興味を持って祖父の経験を読んでくれているという事実は、尚文を少しだけ勇気づけた。
 ブログのチェックをあらかた終えると、尚文はブラウザの検索窓に「シベリア抑留」と打ち込んだ。にわかに、祖父と同じ目に遭ったほかの人々の経験を知りたくなっていた。
 検索結果には、まずシベリア抑留の概要を説明した電子辞書サイト、シベリア抑留をテーマに書かれた本の紹介、そしてトップニュースと冠して大手新聞社の抑留に関するデジタル記事が続いた。解放後、多くの抑留者が上陸した京都の舞鶴港にある舞鶴引揚記念館における平和学習についての記事があり、その下には四本ほどの、抑留者たちを扱った短いドキュメンタリー動画が上がってきた。
 尚文はそのひとつひとつを丹念に閲覧していった。極寒のなか、鉄道敷設に駆り出された人々は、凍ったレールに素手で触ってしまうとくっついてしまって離れず、皮や肉が剥がれるのを覚悟で無理矢理引き離さなければならなかったという話があった。あまりにも腹が減り過ぎて、貯蔵庫の裏でたまたま見つけた猫を捕まえて殺し、焼いて食べたという話もあった(こんなにうまいものがあるのかと思うくらい、うまかったという)。飢餓に耐えきれずという話では、木綿袋のなかに排泄した下痢便を川で洗い、そのなかに残った未消化の燕麦の殻をつまんで食べたという話もあった。
 いずれも実にすさまじい実際体験だったが、尚文がもっとも関心を引かれたのは、戦後六十五年が経過してからやっと、〝戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法〟、通称〝シベリア特措法〟というものが可決されたという記事だった。元抑留者に対し、一人二十五万から最高百五十万円を一時金として支給することが決定されていた。
 抑留者のなかには、最長十一年帰国できなかった人もいたという。十一年もの歳月、極寒の異国で過酷な労働を強いられて補償の最高額が百五十万円? 割に合わなすぎる話だと思った。
 そうするうちに、母屋の台所のほうで物音がし始めた。時絵が起き出してきたのだろう。祖父のための立派な和食の朝食ができ上がるころ、尚文は立っていって、時絵に声をかけた。
 祖父が朝食を摂るあいだ、尚文はそばにいてじっと祖父の様子を見守っていた。「お前は食わんのか」と聞く祖父に、「ちょっと腹の具合が悪うて……母屋で味噌汁だけ飲んできた」と言ってごまかした。
 今朝も祖父は、いつものように熱い緑茶をすすり、「うまいのう」とひとり呟いている。
 尚文は想像した。日本から遙か数百キロを隔てた極寒の土地で、祖父たちはどれほど日本の飲み物や食べ物が恋しかったことだろうか。東京で暮らしていたとき、向こうでは手に入らない浦の食材にかつえる気持ちを味わったことが思い出されたが、祖父たちの思いにはとうてい及ばない。そんなものは子供の我儘わがままレベルのものだとさえ思われた。ふるさとにいつ戻れるのか、いったい戻れるのかどうかさえおぼつかない状況で、望みもしないきつい労働に従事させられながらなのだから、その心的肉体的ストレスと言えば計り知れない。
 そう思うと、祖父の白いご飯を口にする動作も、いままでとは違う重みを持って目に映った。味噌汁をすすり、ゆっくり咀嚼そしゃくする食べ方も、以前は汚らしい感じを受けていたのが恥じ入られる思いがする。どうぞ、もっと存分に味わってくれと心のなかで念じた。
 何をそんなに見つめているのかと怪訝けげんな顔をする祖父に、尚文は愚問だとは思いつつ、シベリア抑留者への戦後補償についてどう思うかと質問してみた。
「最高額で百五十万って、あまりにも少なすぎると思わん?」
 そう言う尚文に、祖父はふうっと溜め息をついてこう答えた。
「……俺は三年行っちょったけえ、二十五万もろうた。それを何に使うたかわかるか? 涼太の鯉のぼりと五月人形を買うた」
 命あって帰国できただけでも、御の字だと思ったと祖父は言った。いまの世のお前たちは、銭で勘定するかもしれんけどの……と続け、周りで次々に仲間が死んでいく状況で生き残ることができた自分は、何と運がよかったのかと、そのことを何よりの恩恵と感じたと語った。
 シベリアから帰還したのち、祖父は戦争がもたらした多くの悲劇を知った。アッツ島で、ガダルカナルで、インパールで、ニューギニアで、硫黄島で、沖縄で、広島と長崎で、樺太で、満州で……おびただしい数の人が死んだ。戦後数十年のあいだ、具体的な戦死者の数や死亡したときの場所や状況が詳しく判明していったとき、そういった話題に触れるたび、祖父は大きなショックを受け、あの戦争のむごたらしさを嚙みしめていったという。
「死んだ人のことだけやねえ」
 祖父は言った。
「舞鶴に着いて船から下りたとき、俺は傷痍しょうい軍人ていうのを初めて見た。戦争で手や足を失うた人たちが、ギターを弾いたり歌を歌ったりして金をもらいよった。初めてその姿を見たときは、ぎょっとしたもんよのう」
 祖父は往事の記憶を辿るように、目の前を見据えていた。
「終戦直後の、焼け野原になった町を建て直さないけん時代よ。手や足がない人は土木や建築の現場で働けんけえ、そうやって金を稼ぐしかなかった。引き揚げ船の着く港には人が集まるけえ、傷痍軍人が何人も来ちょった。あの人たちを見たとき、俺は自分が五体満足で帰ってきたことを、何か申し訳ないような気がした」
 そんな人たちは、戦争が終わって何年経っても、負うた傷を引きずって生きていかないけん。なくした手や足は戻ってこん。死ぬまで、一生よ……。
 話しながら、祖父は顔をゆがめ、唇を嚙みしめた。
「シベリアにおったとき、俺は日本がそんなに悲惨ことになっちょったとは知らんかった。腹が減るのと寒いのとで、ただただ自分が辛いと思いよった。でも、戻ってきてそういう色んなことを知っていったらの」
 尚文は身を乗り出した。
「向こうに送られて、確かにひでえ目に遭うたけどの、人を殺したり殺されたりの戦闘も経験せんかったし、こうして何とか命を取り留めて、手も足も無事で戻ってくることができた。いなかに戻ってまた漁師になれたし、子どももできて、お前のような孫もできて、いまは曾孫までおる。俺自身は、そうとうな果報者じゃ、と思うちょる」
 そらあ政府がちっとでもねぎらう気持ちを見せてくれたんはありがたい。でもの。
 これは俺ひとりの考えかもわからんけどの、あの時代を生きた人たち全員のことを思うたら、補償やら何やらゼニカネでは解決できんことが多すぎる。二十五万円もろうても、一千万円もろうても同じなんよ。ひとりひとりが背負うていくものは一寸も減らん。じゃあ、どうすればいいんやろうか? 俺は、何十年もそのことを考えてきた。それでいま思うのはの、この先の世代のお前たちに、戦争中にあったことをできるだけようけ、、、知ってほしいっちゅうことじゃ。
 二度と同じ過ちを繰り返さんためには、ひどいことでも残酷なことでも、目を背けず〝知る〟ことやと俺は思う。あの戦争がどれだけ悲惨やったか、骨の髄まで感じ取ることができれば、絶対にそれを回避したいと望むはずよ。そうしてくれたら、俺たちのような者にとってどれだけ報いになるかわからん、と、祖父は言った。
 ――確かに愚問だった。でも、聞いてみてよかった。庵を出るとき、尚文はそう思った。
 
 祖父の膳を下げ終わってから、尚文は最近頼まれたバイクのエンジンの修理を始めた。シベリアでの祖父たちの労苦には遠く及ばないが、それを自分に割り当てられた労働と仮定してやるつもりだった。
 離れのサッシを開けたすぐ外に、鉄棒とタープで簡単な屋根をこしらえ、自分専用の作業場にしている。台風のときには慌てて取り込まなければならないが、それ以外はなかなか居心地のいい場所になっていた。
 高校の先輩である浜崎さんから修理を頼まれて預かっていたジェベル一二五を作業台に固定し、エンジンを取り外す。外したエンジンを持ち上げようとして、尚文は思わず唸った。一二五cc単気筒のバイクのエンジンの重さは、せいぜい三十キロぐらいだ。いつもの尚文なら、少々無理な姿勢でも軽々持ち上げられるはずなのだが、今日は腕に力が入らず、エンジンを別の作業台に移すあいだにあやうく落としそうになった。そうするうちに腹が鳴り出して、朝食のカロリーが断然足りていないせいだということに気づいた。しかも、作業を進めながらわかってきたのだが、今日はいつになく要領が悪かった。普段なら易々やすやすと進められる慣れた作業が、全然流れていかない。スパナを置いた場所を忘れて何度も探さなければならなかったし、修理の手順を間違えたりして、思考能力がかなり失われていることを実感した。
 昼前になるころ、時絵が昼食のために焼きそばを料理する匂いが漂ってきた。その匂いを嗅ぐと、唾液が込み上げ、胃が締めつけられ、たまらなくなった。降参だ。俺にはとても無理だ、と思った。
 こんな体調で、祖父たちは木を切り、枝を払い、それを運ばされていたのか。一日に三本、毎日、何年も。それは尚文の想像を絶していた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?