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【長編小説】 ヒジュラ -邂逅の街- 10

 ――月のさやけき夜だった。なぜか中途で目を覚ました私は、眠れなくなって、手洗いに行った。
 部屋への帰り、廊下の先がぼうっと白く明るくなっているのに気づいた。見ると床の上に人がうずくまっている。いつもはその先が見えないほど薄暗いその場所は、そこに開いている窓から射し込む月明かりに照らされていた。そしてその光のなかに浮かぶようにして、その人は月を眺めているようだった。私の気配に気づいて、向こうもこちらを振り向いた。
 サーレムだった。
 “枯れ谷”から来た少年は、私を認めると、いつもの人懐こい笑顔で笑った。それは薄闇のなかでもわかるほど、身についたもので、サーレムという子は目が合うと笑うという固定観念のようなものが私にあるからそう見えたのかと思ったほどだった。
 私たちはお互いに会釈をした。すると、サーレムの大きな目のなかに浮かんでいる愉悦に誘われたかのように、自然と私の足は彼のいるほうに向かった。同じように床の上に座り、少年の見つめていた月を見上げた。
 今宵は満月だった。
 少年は、やおら小さな声で話を始めた。私に通じないことはわかっているはずなのに、そんなことはおかまいなしといった風で、彼は楽しそうに語り続けた。柔らかな仕草で、月を指差したり、首を横に傾けたりしながら話す彼の様子を見ているうちに、私の頭のなかであるイメージが展開していった。
 サーレムは故郷の村で、家の屋上に布団を持って上がって眠る。隣にはアフマドも寝ている。雨は降らないから、安心して朝までぐっすり眠れる。こんな風に月の明るい夜はなかなか寝つけないけれど、月の光を浴びるのが好きだ。目を閉じて月の光を浴びていると、とてもいい気分になる。どんな辛いことや、嫌なことも忘れられる……。
 ――彼が本当にこんなことを話したのかどうか、定かではない。けれど、月の夜の魔法が溶けた青白い空気が私たちの意識の境界を溶かして混ぜ合わせ、仲介していたのだろうか、サーレムの細長い手指を使ったフワフワとしたジェスチャーを見ているあいだ、私は彼の話すことすべてを情景として見ることができるような気がしていたのだった。
 私たちは、隣同士に座って皓皓こうこうと照る満月の光を浴びていた。
 時間の経過とともに、月の光は体のなかに浸透していくようだった。だんだんと私にも、彼の言う意味がわかる気がしてきた。
 ――月の光を浴びるのは、本当に気持ちが良かった――。汚れたものが洗い清められ、行く手を塞いでいた遮蔽物しゃへいぶつがひとつひとつ取り除かれていくような感じがした。……どれくらいのあいだそうしていたのか、その時間は永遠に続くようでもあったし、また、私は永遠に続いて欲しいと思っていた。
 
 ……そのとき、不意に、私は自分の内奥にあるおりが押し出され、表面に浮いてくるような感覚を覚えた。それは喉を上向きに伝って上がってきて、ごく自然な感じで、声になった。
「私ね、……」
 せきを切ったように、声は流れ出した。
「私ね、ずっと昔、とても好きな人がいたの。特別皆からいい人と言われるような人じゃなかったけれど、どうしてか自分でもわからない、でもどうしても好きだった。……色んなことがあったのよ。その人のほうが私を想っていた時期もあった。でも上手くいかなかった。私たちのあいだには、たくさんの壁があったし、生き方も全然違っていた。それでも私たちは根っこのところでそっくりだったし、そこで繋がっているとも信じていたの。二人で何とかできれば、ひとつになれると思っていた。だけど私は何もできなかった。まだ見えない未来や、変化するってことに身を投じるのを怖がってしまったの。その人もまた、何もしなかった。私と同じように怖かったのかもしれないし、ずるかったのかもしれないね……。いまとなっては確かめようもないことだけど……。ある日、私たちは大きな喧嘩をして、それっきり離れてしまったの。それっきり、もう会うことはないんだよ……」
 ハァ、と、私は大きな溜息をついた。心によどんでいた、いままでひた隠しにしてきたものを一気に吐き出して、涙が込み上げてきそうになったけれど、一方で気持ちはすっきりしていた。
 サーレムは、視線を私の顔に据えたまま、終始黙って聞いていたが、やがてゆっくりと腕を伸ばして私の手を握った。思っていたより大きな、温かい手だった。私は彼の手を握り返し、そのまましばらくじっとしていた。 
 ――月の光はいよいよ濃くなり、私たちの繋いだ手は溶け合っているように見えた。

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