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【日記】隠し切れない老い、性からの解脱

写真は上野の夜桜。花粉症で意識がもうろうとしている中で撮影しました。

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最近オンラインMTGをしているとどーしても自分の頬が下がっているのが気になってしまう。鏡に映る自分はまだ大丈夫なように見えて、意外と画面越しではしっかりとオバサンだった。

マチアプもやめ、11月から男との接触がない。なぜか断続的に連絡をしてくる韓国ハーフくんがいるのだが、致命的にタイミングがかみ合わないので会えていない。さみしいという気持ちもあるが、もう一回TinderだのPairsとかをやる気にもならず、3月下旬を迎えてしまった。ビックリするぐらいの枯れ具合だ。

出会いに積極的でないのは、単純に老いを強烈に意識するようになったから、というのはあるだろう。出会い市場ではもう通用しない年齢であることは勿論大きな理由の一つだ。それと同時に、上記の通り外見的な老いを自覚する機会が多くなってきているので、女である自分を維持し続けることに、結構な疲れを感じ始めているというのもある。
あと、普通に出会いのたびにメンタルと時間の浪費を感じるようになった。男と無理やり話を併せて疲弊するくらいなら、馬券に向き合っていたほうがよっぽど有意義だとさえ思うようになった。

ようは、女として男にアピールすることに疲れたという話なんだと思う。度々そういうタイミングは訪れていたが、今回は価値観の変容に通ずる決定的なターニングポイントになっている気がする。昔ほどの性的衝動ももうないし、そんならもう無理をして見栄を張る必要もないか、疲れるし。ということで、私は女から「オバサン」……というか、「中年」という生き物として存在してみようという気持ちになっている。

性別を超えて、自分を「中年」という生き物としてとらえ始めてから、大分メンタルが楽になった。中年を「諦観」の象徴だととらえている節もあるのも理由の一つなのかもしれない。いろいろなものに諦めがつけば、なにかに期待したり、情熱を注ぐこともないのだけれども、その分低めで安定するというか。そういうわけで、それはそれで楽な生活を送っている。

さんざん性の乱費をしてきて、こんな心境に至るとは思わなんだ。結局女の生きづらさって「女」って性に囚われているからなんじゃないか。「美しくなければ、若く保たなければ、愛されていなければ」とか、もうダルいよそういうの。そう思ってしまうのは、女としての生き方を全うする機会を失った中年の末路と言えなくもないけれど、まあ別に若さだの美しさだの愛だのが無くても、直ちに死ぬわけではない。手からすり抜けていくものを取り戻そうとっして腐心するくらいなら、「もう手に入らないもんだ」と諦めてしまったらいい。若さや美しさの維持に諦めてしまった人間を嗤うやつがいても、そいつだっていつか老いて死ぬわけで。

そういうわけで、まあ性から解脱しはじめた結果、諦観をベースにした生活様式ができあがった。あとは勤労から解放されたらいうことないので、まぐれでもwin5とか当たることだけは一応夢見ていたい。


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