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時代劇がエロすぎた

 ちょっと昔の時代劇を観てみたのだが。

 性的な表現が、ちとキツイ。


 お色気シーンが多い、というだけなら時代劇じゃなくてかつてのバラエティも同様である。だが時代劇に描かれていたのは、性暴力である。帯を紐解き「あーれー」なんていう滑稽なものでもなく、もう少し生々しいやつだ。

 勧善懲悪を徹底すると、悪人が犯す罪は凄惨なものを描くことになる。そういのと比べると水戸黄門や暴れん坊将軍は、ずいぶんと毒気を抜かれた時代劇であったようだ。

 

 さて水戸黄門といえば由美かおるが毎度入浴していたが、あれは徒な性的表現であった。それに対して性暴力シーンは物語の要素であるので必然性があるものだ、と考えれば、サービスショットよりはけしからんくはないかもしれない。でも待てよ、と。

 思い出したのが、遙洋子さんから講演で聴いた話である。彼女が初めて役をもらった時代劇で、監督からおっぱいを揺らしながら走り行くことを要求されたという。「胸なんてさらすと、両親に役者をやめさせられてしまう」と監督に訴えることによってなんとかその難を逃れたとか。

 こういうことって、今でも多そうだなと思う。思うというか最近もそういう事件があった。結局そういう権力で性を搾取される構造がある故の映像なんだな、と思うと、物語としての必然性云々も結局のところ性的搾取のための言い訳にしかすぎないのかもしれない。


 レイプシーンのすべてがいけないとか、どんな形でもいけない、と今言いきるつもりはない。あるいはやはりいけないかもしれない。ここはその善悪を、つきつめた形で考えるのではなく、まず己の感性に聞いてみたい。

 我々は今の時代に生きている以上、どうせ私たちはその影響を逃れていない。そこで、今ではない時代を眺めることによって今を眺めるヒントにしてみる。


 私は男性だから、性的に脅かされることは、この社会においては女性よりは少なくて済んでいる。ゆえに危機感については女性より鈍感なはずだ。そんな男性の私でも、昔の時代劇については「え、エグ…」と思ってしまったのである。

 ここから類推できることがある。未来から現在を見れば、性的な表現の質だとか量だとか文脈だとかゾーニングの度合いだとかは、直感的に「え…」と閉口するようなものなのではないか。(その未来のセンスには、現代の女性たちでさえ追いついていないかもしれない)


 本日、今はなんでもかんでもセクハラだなんてけしからんだとかなんとか、どこぞの偉い人だかが口にしたということで物議をかもしていたらしい。同じ時代の中にも、種々のセンスの人がいるものである。おそらくそういう多様性のひしめきあいが、世の性表現に対する寛容さの度合いを変化させ、「不適切さ」の感性を全体的に高めるのに貢献してきたのであろう。

 性表現の「最適」な落としどころというものがあるかどうかはわからない。ただ、もしそういうものがあるのならば、時代がそこに到達したときにそこで安定するかもしれない。「不寛容すぎる」「エグすぎる」と思う双方が綱引きをしても、そこから大きくずれるのには無駄にエネルギーを必要とするので、すぐにまた「最適」に戻るからだ。

 まるで物理を考えるときのような発想をしてみた。なら、逆もあるかもしれない。これは安定なつりあいではなくて、時代は不寛容まっしぐらのディストピアにまっしぐらなだけ、という可能性もある。


 さて、いつかユートピアは作れるのだろうか? 

 …なんてことを『映画ドラえもんーーのび太の空の理想郷』を観ながら考えてみた。


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