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恐れからの脱却

前に、嫉妬の根本には、恐れが存在していると書きました。
例えば、自分の愛する人が他人と楽しそうに会話していたり、或いは、二人きりで何処かへ出かけたり、お食事をしたりしていると嫉妬します。
また、身近な人が出世したり、大金を手にしたり、評価が上がると嫉妬してしまいます。
それは、恋人を奪われる恐れや、自分のポジションやステータスが失墜してしてしまう恐れが根本にあると考えています。

私たちは、誰もがこういった感情を大なり小なり所有していて、そういった感情を簡単に理解できます。
つまり、それが普通だと思っています。
しかし、もし銀河の光の社会であるなら、こういった感情は普通ではないかもしれません。
普通でないなら、何なのかというと、恐れに囚われた状態であり、癒しの必要な状態なのではないかと思います。

もし、誰もが愛にに溢れ、ワンネスの状態を理解し、誰もが善人で、他人に対し普通に愛情表現ができたのなら、恋人が他人に奪われるという恐れはないのではないでしょうか?
まして、奪られるという感情は、対象を所有している、自分の持ち物だという意識であるため、その対象の自由意志を侵害しているかもしれません。
恋人が、他者に愛情を向け、そこにポジティブな愛や何等かの成長や発見、気付きのエネルギーが流れるなら、その嬉しさや楽しさといったエネルギーを歓迎できないでしょうか?

また、現在の私達の社会は、競争社会です。
子供の頃から点数を付けられ、競争させられてきました。
勝ち負けの二元性の概念を叩きこまれてきました。
素晴らしいと勝ちは、違いますよね。
勝つ事への努力と、負ける事の恐れは、大きなストレスになります。
負けることは、経済的弱者になることであり、この経済社会での弱者は生きることがより困難になります。
経済力という価値観が尊ばれ、それが行動基準となり、その為に人生を費やすことになります。
だから、自分より優れた者に対して嫉妬を抱くわけです。
虐めの原因もここにあると思います。
自分より弱者であると勘違いした人を虐めて、自分のステータスを確認しているのだと思います。

でも、もしその経済基準がなければどうでしょう?
競争しなくても良い社会、二元性でない世界。
自分が自分の思うままに生きられる世界があるなら、そういった嫉妬は生まれないのではないでしょうか?
何故なら、いくら他人が出世しようが、大金を得ようが、そこに羨ましいという感情がなくなるわけですから。
他人と比べる必要がないわけです。
そして、それで他人が自分の望む事を得られて幸せを感じるなら、そこにポジティブなハッピーなエネルギーが発生するのだから、それは喜ばしいことではないでしょうか?

今、そうでないのは、そういった事が理想であり、絵空事であるのは、地球が、歪められた社会であるからだと思います。
支配者は、この恐れという厄介な感情を利用して、太古より人々を支配してきました。
恐れが、悪いというわけではありません。
恐れは、生存本能のセンサーです。危険予知力です。
獣が生き残るため、逃げる時に使うセンサーだと思います。
この生体システムを支配者は悪用しているのだと思います。

ただ、僕は、この野生の法則も、もっと強い力で歪められたのではないかと思います。
弱肉強食や、生殖後にメスがオスを喰らう一部の生物のシステムは、宇宙の愛のシステムとは、外れているように感じるからです。
今の私達にできることは、本能のシステムを理解しながら、意識的に恐れから脱却することです。
そして、恐れなくても良い社会を実現することだと思います。
それが、下等生物とは違う、知性を備えた人間にはできる能力だと考えるからです。
自分の恐れと対峙して癒すことは、大いなる癒しであり、不適切な信念の浄化でもあると思います。

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