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自分の「健康」を定義するのは自分だ

2年前、メニエール病を発症してから左耳の聴力が思いっきり落ちた。わたしは特に低音が聴こえづらくて、発症するとわたしの世界から低い音が消える。音が鳴っているのはわかるのだけれど、遠くでぼんやり聴こえるくらいで、酷い時には音楽を聴いていてもベースラインだけ聞き取れないことがある。日常生活で困ることはあまりないが、これを抱える前よりかは、だいぶ音がガサつくようになったなと感じる。

最初に発症した時のわたしはひどく絶望を感じていて、それが三半規管から来るものだとわかるのにさえ時間がかかった。起き上がるとただただ気持ち悪くて、目が回って、歩こうとすると吐き気がこみ上げてきて、いつも船酔いしてるみたいな状態で、とにかく嘔吐を繰り返した。もう吐くものがないはずなのに、わたしの臓器のどこからか引っ張り出された粘液が口から出るたびに、まだ吐ける気がしてそれだけでまた吐きそうになる。
内臓系の疾患だと思って病院に行っても、大きな原因は見つからなくて、かかりつけの耳鼻科に行ってやっと「メニエール病」だとわかった。耳からくる病気である。
原因はたったひとつ、「ストレスのせいです」と言われた。それ以上のなにかでなる病気ではないのだそう。聞いたことのないお薬を出されて、医者にも看護師にも薬剤師にも「安静にしててください」と言われた。無理せず、ゆっくり休んでくださいね。同じようなトーンでみんなそんなことを言うから、なんだか気持ち悪くて聞き流してしまった。耳を良い状態に保つには、とにかくストレスを減らして規則正しく健康に過ごすのが一番とのこと。
遅刻の連絡はしたものの、病院からそのまま会社に行く気にもなれずに、そのまま実家に帰って横になって寝た。大丈夫なの?という母の声に、ありきたりな返事しか返せず、わたしはとにかく寝た。

ストレスで耳を壊して、大好きな音楽が曇るようになってから、そこから数日間はなんだか人生が楽しくなかった。イヤホンで音楽を聴くのは耳にとってストレスだから、両耳で音楽を聴くことはあまりない。大抵、右耳だけかけてきいている。調子がいい時は本当になんともないので忘れるくらいではあるが、ちょっと無理をしたり、過度なストレスがかかると、突然耳に水が詰まったみたいにボンって曇る。欠伸をしても詰まりが解けなくて、ちょっと休むと抜ける。嫌いな人や苦手な人と無理に話してると耳鳴りがなるから、わたしの耳はすごく正直だなと褒め讃えたい。

saku、24歳。多分世間で言うとまだ若い方だけれど、この歳でもう3回もぎっくり腰になった経験がある。ある朝起きて、ベッドから立ち上がろうとしたその瞬間、プンッと音が鳴って腰が逝った。
なにが起こったか分からなくて、とにかく痛くて、固まってしまって、動けない。脂汗をかきながら仕事に行くが、座ってられずに早退し、病院に行った結果は、ぎっくり腰だった。重いものなど特に持っていないのになるもんだから不思議で原因を聞くと、「過労です。疲れが蓄積して爆発しちゃったんでしょうね」と当たり前のように言われた。
一度なると癖になってしまって、ある日突然腰が逝く。なぜ今?!と言うタイミングで壊れるから、自分ではコントールができない。
なってしまったらもうしょうがないので、「いやーなってしまいました」と会社に報告をして、速やかに整骨院に行って電気をかける。早めに処置をすれば、早治る。早期治療は本当に大切なのだ。

また以前にnoteでも書いたが、大学2年の夏には、全身麻酔で左胸の手術をしたことがある。自分の「女」に関わる部分だったからすごく怖くて、それでも切らなければならなかったから、覚悟を決めて切った。数年たった今でもまだ傷は消えてくれなくて、いつか消えるその日を待っている。

病院に通いすぎて、通院途中の道を彩るお店の入れ替わりを何度も見てきた。お気に入りのお茶屋さんが潰れた時ブチ切れたし、なんかおしゃれなパン屋さんができたときには、できたてのパンが食べたかったから朝に診察を集中させたりもした。行きつけの病院の中にスタバができたときには、病院に行くのがちょっと楽しくなったから、やはりスタバはわたしを救うのである。

身体を壊しまくっているのは最早言うまでもないが、まだ小学生の頃、名前がつく精神的な病気になった経験がある。1日に何度も手を洗って、本を読んでも同じ行を読んでしまって、見るからにわたしは衰弱していった。手遅れになった時に母が気付いてくれて、やっと地獄が終わったのである。
あの時のわたしは、この人生を振り返ってもあの時期が一番に悲しくて辛くて、あの頃のわたしに会いに行けるなら、がんばったねと抱きしめてあげたいくらいだ。
心が壊れていく瞬間は目に見えなくて、気がついたら末期なんてこともあるから、人はやっぱり繊細だなと感じずにはいられない。

ここまで長ったらしく、自分が抱えてきた病気について振り返りつつ綴ったが、わたしは生まれてこの方、自分を不健康だと思ったことはない。人よりは病が多く、病院に通わなければならなくて、病気に費やした時間がどうしても多いけれど、だからどうと言うことは一切ないのである。
風邪もひきやすいし、ブームが去った頃にインフルエンザになって周りに引かれたりもするが、別にしょうがないことだな、と思って終わりだ。

病気がわかるたびに、それほど重くは受けとめず、軽く受け流すだけなのだ。ただ、それだけだ。
身体や心のどこかが悪いから自分かわいそうとか、なんで病気はわたしを選んだのかとか、たったの一度も考えたことがないかと言われたら嘘になる気がするが、何かを病気のせいにしたことはほんの一度もない。これだけは、自信を持って言える。

むしゃくしゃすることは、ある。仕事がうまく進められない、また休まなければいけない。また迷惑をかけてしまう。悔しくて泣いたこともある。
自分を責めることはあるが、それでも周りはわたしを責めない。だから、いまできることはちゃんとしようと思う。支えて、支えられて生きていきたいのだ。

どの病気も、仕方がないのだ。誰も悪くはない。両親を責めるのも、流れる血を憎むのも、正しいはずがない。
これだけ複雑な身体を持ち、感情を持ち、悪意や善意がまみれた社会で働くわたしたちが、何の問題もなく生きていける方が奇跡でしかない。誰しもがきっと身体に弱点があって、それが見えるか見えないかもさまざまで、同じ体なんてこの世に一つも存在しないのだ。
個体として生きることを求められるのに、集団に溶け込めないと間違いさがしをされる日々。病気なんてものがひとつやふたつあったところで、なにもおかしくはないけれど、思いの外社会は病気というものに耐性がなくて、それを抱える人々の心もまた蝕まれていく。

難病と戦い苦しんでいる誰かがいたとして。
なんの病気もなくいたって健康に暮らす人もいる。
でも、その2人には等しく明日死ぬ可能性がある。健康な人が長生きする保証なんてどこにもない。生きる明日を、病気で決められてたまるものかと思うのである。戦うものには、明日が来るのが当然であってほしい。病気だからという理由で、何かを諦める社会を作りたくないと、わたしは心の底から思うのである。

ということで、わたしは自分が病気になった時に、「なっちまったもんはしかたねえ。かかってこいや」という心持ちで挑むようにしている。ぎっくり腰を含め、しょっちゅう病気を繰り返すわたしに対して周りは労りの言葉をくれるけれど、わたしはそのぎっくり腰を楽しんで、学びとさえしているから、若干変態でもある。

だって、病気だからこそ気づいたことだってあるのだ。嫌なことだらけではないのだ。

ぎっくり腰は、多少歩き方が異様でゆっくりにはなるものの、目に見えて具合悪そうではないから、電車や駅でも気づいてもらえない。ゆっくり歩いているうざい若者になってしまうし、どこが悪いかなど一目でわからないから、助けてもらえることは不可能に等しい。脂汗をかきながら電車で吊革にぶら下がっていた時でさえ、誰も気づいてはくれなかった。
だからこそ、目に見えない疾患を抱えている人に気付けるような自分であろうと決意をしたし、公共の場での振る舞い方について省みるきっかけにもなった。
自分が知らない病気で悩む人がいて、そんな人も当たり前のようにこの社会で暮らしているのだ。

自分が自分を健康だと思えば、健康は自分のものになる。自分が自分を不健康だと思えば、不健康のままだ。
病気を特別視するのではなく、ただ受け止め、そして軽く受け流し、ちょっとだけ気をつけて生活をすることで、わたしは自分をこれからも健康な人として扱っていくと決めている。
わたしの健康を決めるのは、病院の先生でも、親でも、周りでもない。わたしなのだ。
これから先、どんな病気になったって、自分をかわいそうだと思うことは2度とない。わたしはかわいそうでもないし、不幸でもない。病気がわたしを好んで選んだというのなら、受けて立つぞということなのだ。
防げる生活習慣病はふせぎ、わたしの場合はとりあえずストレスを減らす生活をしようと注意はしつつ、それでも防げなかった黒い影は、自分の個性として受け止めていく。自分の身体を理解することはこれからもやめず、自分からのSOSから逃げず、ただ普通に生きていく人間であろうとしか思わない。

だから、あなたがどんな病気を持っていても、わたしは一切同情をしない。可哀想だとも思わない。必要な助けは届けつつ、それ以外は周りと接し方は変わらない。
あなたがどんなに自分を責めて、過剰なほどに病気の自分を蔑んでも、わたしはそんなことはしてやらない。特別扱いなんてしない。しっかりしろよ、と喝を入れて、苦しい時には手をさすることしかできないけれど。
あなたが何か伝えようとするのなら、この先どれだけ聴力が落ちても、何も聞こえなくなっても、
理解しようと聞くことはやめてあげない。

踏ん張って、一緒に生きていこうよ。
もう、自分を自分で嫌いにならないでくれ。
苦しみを増やし、病気で心の色が消えていくための人生じゃないだろう。

病気だからなんだっていうのだ。
病気があるから何ができないというのだ。
自分の健康なんて、自分が決めて良いものだろう。

今を生きる全ての人間は、1人残らず健康なんだ。

#エッセイ #コラム #メニエール





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