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コンビニの店員さんに優しさを

ファミチキが売り切れで、ブチギレてるお客さんがいた。ちょっと遅いお昼休みをいただいて、適当におにぎりとお菓子を選びレジに並んでいたとある日のこと。わたしの前にいたサラリーマンの男性が、レジカウンターの前で店員さんに怒鳴っていたのである。
「なんで売り切れてんだよ!いつもあんじゃねえかよ!」
「申し訳ございません…本日分は終了してしまい…」
「チッ」
ファミチキが買えなかったことへの苛立ちを隠そうともせず、盛大に舌打ち。周りにいた他のお客さんは、気の毒そうにチラチラと店員さんと怒鳴りリーマンを交互に見ている。そのまま大きなため息をついたかと思えば、わざとらしく足音を立ててその人は去っていった。申し訳なさそうに眉を下げ、悲しそうな顔をしていた店員さんは、そのままの表情でわたしへ目をやり「次の方、どうぞ」と言った。
あの場で流れていた微妙な雰囲気。あの空気を作った張本人はもうそこにはいなくて、きっと今頃怒鳴ってスッキリしてるんだろうけれど、その場に残された全員は居心地が悪かったと思う。なんたる後味の悪さ。

いつも、当たり前みたいにコンビニは私たちの側にいる。お腹が空いたとき、緊急で物が必要なとき、トイレに行きたいとき。その一瞬のニーズにいとも簡単に応えてくれて、その名の通り「便利屋」として人々の日常に寄り添ってくれている。コンビニがなければ、わたしたちの生活水準はきっと下がる。

わたしは田舎出身なので、東京に来た時には、都会のコンビニの店内の小ささと数の多さにとてもびっくりした。今ここにコンビニがあるというのに、数メートル先には別系列のお店があって、その店内はどれもひどく狭い。
田舎では徒歩圏内にコンビニなんてなくて、わざわざ自転車に乗っていかなければならなかったし、場所によっては車がないとコンビニには辿り着けない。土地が広い分、お店も大きくて、駐車場もだだっ広い。
これほどまでにコンビニが点在していて、いつでもどこでも行きたいときにお店に行けるのは、都内に住んでいるからこそなのだ、とわたしは今これを読んでいるシティボーイズ&ガールズに叫びたい。夜中にお腹がすいたからちょっくらコンビニ行ってくるわ!なんてこと、田舎に住んでいたらできないんだぜ。

ファミチキ事件に遭遇したわたしは、ふと思う。

「コンビニの店員さんに、『ありがとう』と言える大人は、この世の中にどれくらいいるんだろう」と。

人前でも見境なくぶちぎれていたあの男性は、おそらくこのコンビニの常連客なのだろう。いつもあんじゃねえか!なんて言えるくらいだから、きっと毎日コンビニに通ってお目当てのそれを買って食べているのだ。あの男性にとって、ファミチキがお店で買えることは「当たり前」であって、買えないことが非日常なのだ。毎日の当たり前を邪魔された気分になり、買えなかったことに怒りが湧いてしまいキレたのだろう。

しかし、現実は逆だ。ものがそこにあるのは、概ね奇跡だ。それを売るために働く人がいるあのお店は、どう考えても当たり前なんかではない。ものを安全に買うことができるのは、人の手があるからなのだ。来る日も来る日も、朝から晩まで商品を管理し、ファストインファストアウト(生ものを扱うお店では、期限切れが早いものから順に棚の前にくるよう整理するのです)にのっとり商品を売り、おいしいサイドメニューを作ってくれる店員さん。
彼らは、私たちと同じように、仕事をしている労働者であり、人間であるということを、絶対に忘れてはいけない。レジをうつためだけにいる機械なんかじゃない。コンビニは物流なのだから商品が欠品してしまうことだってあるし、交通の影響でやむをえずに商品の発売が遅れてしまうことだってある。わたしたちが時たま仕事でミスをしてしまうように、店員さんだってうっかり間違ってしまうこともあるだろう。取引先のスタッフに理不尽な嫌がらせをされてへこむ日があるように、コンビニの店員さんだっていきなりお客さんに怒鳴られて悲しい思いをすることだってあるのだ。

コンビニが、いつだってコンビニエンスでいてくれるのは、そこで必死に働く人がいるからだ。当たり前のようにコンビニがあるからこそ、わたしたちはその大切さを忘れてしまっている。日常に溶け込みすぎていて、そのありがたさを考えることなど、なくなってしまうのだろう。
やってくれてあたりまえ、いてくれてあたりまえ。こっちは急いでるんだから早くしろよ、なんで売ってないんだよ、もたもたすんなよ。レジに並んでいるお客さんにもそれぞれの事情があるかもしれないけれど、それはコンビニで働く側の店員さんにとっても同じなのだ。
けっして、お客さんが偉いわけではない。いつだって消費する側は盲目になり傲慢さで王様気どりだけれど、いざそれがなくなり自分の生活から消えてしまったことを考えさえできれば、そんな身勝手な行動はとれないはずなのである。

余裕のないときほど、当たり前の幸せが曇る。急いでいるときや切羽詰まっているときこそ、まったく自分に関係のない人に八つ当たりをしてしまうのが、人間の愚かさだ。コンビニというのは典型的なその対象になってしまう気がしていて、例えば自分に余裕がなくて、いらついて態度に出てしまうくらい心が狭くなっているとき、コンビニの店員さんに思いやりを持てる大人はおそらくほんの一握りだ。イラついているときに自分の上司や家族、恋人や友達にわかりやすく八つ当たりをするほど大人は不出来ではないし、その辺は世渡り上手なのだ。
そんなとききっと、都合よく目の前にいて、ちょっと悪い態度をとっても受け流すのに慣れていそうなコンビニの店員さんに対して、細くとも傷つけるには十分な刃先を向けてしまうのではないだろうか。ファミチキが買えなくて怒っていたあの男性も、あとほんの少し温かい気持ちがあって、他人を思いやれるほど余裕があれば、きっと怒鳴っていなかっただろう。余裕のなさが、人間を小さくつまらないものにするのだ。その余裕の管理は、自分でしかできないのだから、人に攻撃をして憂さ晴らしをしたところで、誰も幸せになんかなれない。

自分の日常に胡座をかくと、つまらない人間になる。受け身であることに慣れてしまえば、人はどんどんわがままになる。してもらっていることが当たり前、あって当たり前、お礼はいつも言われる側。そこにあるものがなくなったときにやっと、自分がどれだけそれに頼り依存していたのか気づけたとしても、大体もう遅いのだ。自分の行動のその先を想像できる大人は、この世界にどれくらいいるんだろうか。

通勤の電車が動くことも、仕事のメールが来ることも、コンビニで物が買えることも。自分ではない誰かが、今日もどこかで動いて生きている証だ。決して誰かから憧れなど持たれない辛い仕事だったとしても、そこで働く人が命を削ってその時間に魂を燃やし、守りたいなにかのために、迎えたい明日のために働いていることに、嘘も偽りもない。仕事の種類に良し悪しなんてものは、人類が働き始めてから今の今まで存在しない。どんな仕事だったとしても、みんな生きるために働いていることに変わりはない。人から見たらキラキラなんてしていない仕事でも、憧れられないような仕事でも、実際にそこで働く人のオレンジ色に燃える熱い心の中の気持ちに、望んでもいない誰かからの羨望なんてものは関係ない。

仕事にプライドを持つということは、プロ意識を持つということ。それは、誰かにひけらかして自分を売り出すことが必ずしも正しい訳ではない。ただひっそりと、淡々と仕事をこなして、目立たないところで働く誰かにも信念があるのだ。
働く者同士、お互いの仕事にプライドを持って、尊敬しあって自然と関われればいいのにと、悔しいけれどわたしはファミチキ事件を受けて深く深くそんなことを考えてしまったのだ。

その日常に交わう人々に、「ありがとう」をもって生きていきたい。みんなが働き、自分が働き、やっと世界が回るこの世のなかで、関わることのない人の数の方が圧倒的に多いこの人生で、目の前で顔を合わせて同じ時間をすごせることに、わたしは何歳になっても奇跡を感じてしまうのです。

明日からコンビニで買い物をするとき、店員さんが「ありがとうございました」と最後に挨拶をしてくれたなら、こちらも「ありがとう」と伝えてみてもいいんじゃないだろうか。今日も当たり前みたいにそこにいてくれてありがとう。働いてくれてありがとう。助けてくれて、お腹を満たしてくれて、ありがとう。口に出せなくても、心の中でもいいから、まずは。今からでも、きっと遅くないはずだから。

その一瞬に愛が溢れる空間が、当たり前にいろんなところに存在するようになれば。みんなにとっての当たり前な存在であるあの小さな店内が、ありがとうで満たされれば。
世界が少しだけ平和になる気がするんです。

#エッセイ #コンビニ #イラスト


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