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「許すこと」が正解でなくてもいいだろう

クズ男に夢中だったあの頃、わたしは「いい女」になりたくて仕方がなかった。言われたこと、されたこと、ひとつひとつに一喜一憂しては、彼が惚れるに値する女になりたくて、彼のタイプになることだけを考えていたように思う。恋に傷ついた女というのは、夜になると昼間の何倍もめんどくさくなりがちで、それは理屈では説明ができないひとつの習性なのかもしれない。嫌なことがあったときこそ、早寝早起きをして三食きちんと食べることにしてはいるものの、ダメージを受けた直後に限っては順守してきたマイルールが通用しないこともあった。恋ひとつで元気がなくなる自分も情けなく思えてしまい、早く時間が過ぎて傷が癒えることだけを考えて、毎日仕事に励んだ。

時が流れるにつれて、わたしも大人になった。最近、人間関係の本質ってやつがちょっとだけわかるようになってきた。ありきたりな回答だが、結局すべてはタイミングなのだ。面白いことに、この世の中はその時の自分に必要な人しか現れない仕組みになっている。自分の人間レベルに会う人としか巡り合えないのだろう。なりたい自分に近づけているとやっと自分を認められるようになった今、周りを見渡すと尊敬する大好きな人たちしかいないから、自分の人生が間違っていないことに誇りをもてる。昔は仲が良かった子と感覚が合わなくなって会う回数が減ったのは、できた溝にお互い気づいて距離をとったからなのだろう。わたしは右をみて、その子は左を見ている。見ている方向が違う今は交わらないけれど、同じ世界線で再会できる日がくるのかもしれない。

これまで成り立っていた関係性が壊れるのは、どちらかが悪いだとかどちらかが感情的だったからとかそういうことではなくて、見ているものや目指しているゴールが違って、互いの糸が綺麗に紡がれないからなのだと理解をした。今のわたしが冒頭で登場した彼に出会ったとしても決して好きになってはいないし、話をしたいとも思わないだろう。あの頃のわたしだったから、彼に近づきたかったんだと思う。なくなった恋心から学んだことも確かにあって、なかったことにしようと思うほどでもなく、大事な過去の恋愛として綺麗に片づけられた気がしている。

恋愛の渦中にいるそのとき、彼をみかえしてやりたくて必死だった。彼に好かれる女になる方法を知りたかった。「お前が逃したわたしという魚はいかに大物かをみたまえよ」と、いい女になったわたしを見せつけてやりたくて仕方がなかったのだ。自分の中だけでは答えがみつからなくて、モヤモヤしながらスマホをいじる日々。恋愛に関する知恵袋を漁り、よくあるまとめサイトでおススメの失恋曲まで聴いちゃったりして、完全にかわいそうな女を気取っていた。

そんなある日、わたしはひとつの違和感にたどり着く。「失恋 みかえす いい女」と検索すると、誰が書いたかもわからない、誰が提示したかもわからない「いい女」の条件がたくさん出てくるのだ。「広い心であなたを許してくれる」「許せる心の持ち主」「いい女は寛大な心を持っている」的なことが多数書かれていた。何度読み返しても全く納得できないその条件に、失恋で乾ききった心がさらに乾いていく感覚がしたけれど、なんだってインターネットの世界には「許せること」をいい女だと呈する記事がたくさんあった。

そもそも許せることって、そんなに大事なんだろうか。

その彼のことは、もうなんとも思っていないのでここでおしまい。
だが、恋愛に関わらず未だに忘れられない忌々しい記憶というものがたしかにある。もう随分前のできごとだというのに、べったりと脳の隅にはりついて離れない。幸せな思い出は望んでいるときに浮かんではくれないというのに、嫌でたまらない悲しいトラウマは自分のタイミングでヒョコリと顔を出す。重たくて暗くて、心に穴をあけるほど陰湿なそれは、幸せや楽しさに対してやけに免疫があるらしい。もう大丈夫、もう乗り越えた、総じて状態が良好の時に前向きに誓ったマイナスの感情に打ち勝つための約束なんて、大体意味がない。無防備で健康でいる心に突然現れて傷をつけられて、また傷が更新される。心には検問なんてものがないから、自分の感情はいつだってどこへでも通行可能で、理性というのはなんのためにあるのか時々わからなくなる。ただ毎日、小さな幸せをかみしめて、ちょっとしたことにクスッと笑えて、なんとなく嬉しい気持ちで過ごせていればそれなりに健康でいれるとわかっているのに。ドロドロの吐瀉物よりも消化しきれていない悲しい感情は、いとも簡単に心を汚くする。今だけを見つめられるのなら、過去を振り返って歯ぎしりすることなんてなくなるのに。
月日がたった今になぜ、こんなに同じことで悩むのか、自分でもわからない。相手に非があって、自分だけを責めるのは間違っていると理解しているのに、どうにもうまく消化ができなくて、器用に解決できない自分がまた嫌いになる。嫌なことなんて、忘れてしまえばいい。気にしなければいい。頭でわかっているのに、どうして心が追い付いてくれないのか。

以前、noteにこのような記事を書いた。

あの頃のわたしは、許すのは自分のためであると思っていた。許すに値しないほどのひどいことをされたとして、こちらが相手のことをいつまでも憎んでいても、相手が反省して謝ってくれるなんて奇跡は大抵おこらない。マイナスの感情に溺れて体力を使うくらいなら、まずは自分のために相手を許してしまおう、という考えだった。どこかで自分も誰かに憎まれているんだろうなと思うと、因果応報にも思える。なりふり構わず、万人にとって「正しい人」でいれる人間など存在しえないのだから、いったん許すことも大切なのだろう。

あの記事を書いてちょうど一年が経った今でも、根本の考えは変わらない。怒りや憎しみで身を削るよりも、許す選択をして前に進む大切さを忘れてはいない。ひとつのことにひきずられて毎日を過ごすより、小さな幸せを積み重ねて暮らしていくほうが何倍も楽しい。あの頃許せなかったことが、忘れるくらいどうでもよくなったりもしている。一年前に悩んでいたことと、違うことで悩めるようになった。自分の変化は、間違っていないのだと、ちょっとずつ肯定できるようにもなった。許せなかったことを許せるようになって、心が軽くなったりもしている。

だけど、どうしても。
絶対に許せないことがある。
絶対に許せない人がいる。

何年たっても、未だに心の中に住み着いて、出ていってはくれない。もう10年も前のことなのに、ずっと。なぜこんなにも許せないのか自分でも理由がわからない。どす黒くて重たくて、真っ黒な記憶。調子がいい時に限って姿を現しわたしを叩き潰して、調子が悪い時には楽しそうに出てきて、甘いケーキを一気に腐らせるソイツ。今だって、ここにいる。

インターネットの中では、「許すこと」が美談になりがちだ。許すことに理由をつけて、許すことを希望に変えて、許すことを正解にする。許せた人間が許せるようになった工程を語って、許せないでいる人を許せる世界へと導く。
まるで、作りこまれた正義みたいだ。
わたしが見つけた「いい女」の条件にも当たり前のように練りこまれていたくらいだから、人間には許せる能力が求められるんだろう。

なんて息苦しいんだ。

人が傷ついたとき、その傷は目には見えない。誰かにとっては全くダメージではない一言が、誰かにとってはひっかき傷程度の出来事が、違う誰かにとっては心を殺すほどのものだったりもする。「そんなこと気にするなよ」という最も無責任な慰めが飛び交い、その出来事を気にしている側が間違っているかのような状況が多発している。こんなことで傷ついて、こんなことを気にして、こんなことで泣いて。傷の度合いを勝手に相手のものさしで決められて、傷ついていることが間違いになってしまう気持ち悪い世の中になりやがった。想像力とは、なんのためにあるのだろう。

親が殺されたとして、恋人がレイプされたとして、友人がいじめで自殺に追い込まれたとして。それを許せる人間は、どこにいるというのか。それを気にしない人間がどこにいるというのか。誰かにとっての「そんなこと」は、誰かにとってはそれほどの出来事だったりもするのだ。死と同等の傷を負った人間に対して、「許しは正義」という薄っぺらい答えを提示できるだろうか。ある出来事に対して、「そんなこと気にするなよ」と自論を押し付けることがどれほど残酷であるかを、今一度わたしは問いたい。

許すというのは、ひとつの選択でしかない。浄化して、その出来事を乗り越えようとしたときに、人が選べるコマのひとつでしかないのだ。そもそもその出来事をなかったことにしてすっぱり「忘れる」が正解の人もいるかもしれないし、追うべき傷であったと「納得」しようとする人も存在するだろう。負った傷は一生治らないことを前提に、じゃあこれからどうやって生きていくかを模索したとき、人はやっぱり何かをしなければならなくて、その選択の中に「許す」があるだけのことなのだろう。
なぜ人は「許し」に成長や前向きさを求めるのか。負った傷に、その人の人間レベルなど関係ないはずだ。許すことができたから大人だとか、許せないから子供だとか、どっかの誰かに勝手に判定されるのもうんざりなのである。

だから、許せないなら許さなくてもいいとわたしは思う。つらくて苦しくて悲しくて悔しくて、殺したいほど憎い誰かがいること、消し去りたい残酷な出来事があったこと、思い出すたびに生まれてくる黒い感情を無理に捨てようとしなくてもいいのだと思う。許せない自分を嫌いになる必要も、もちろんない。許せないことは間違いではないのだ。時たま現れる暗い気持ちに押しつぶされそうになるのは、情けないことなんかじゃない。人として、当たり前に悲しんでいいのである。

あなたが気にして許せないでいることは「そんなこと」なんかではない。受け止めるにはあまりに辛い感情を、我が身できちんと受け止められているあなたには、十分価値がある。許せないという感情に苦しんでいる人間がするべきことはたったひとつ、行き場のないこの感情をどうしていくか、それだけだ。されたことをやり返すなんて野暮なことは考えないで、マイナスな感情を自分なりにどこへぶつけるか、これが一番求められることだと思う。「ネガティブの『ろ過』」がわかると、人は格段に強くなる。

ここまで書いてきてあれだが、わたしの原動力はどう考えたってマイナスの感情だった。皮肉なことに、わたしが手にしてきたこれまでの成功や勝利に到達するまでの最後の一蹴りは、過去の嫌なことから成り立ってしまっていて、世界とはなんて理不尽なのだろうと本気で絶望をする。もうだめかもしれないと弱ったときに限って嫌な記憶がよみがえって、「あの野郎にまけてたまるか」「絶対許さん、みとけよ」と反発する勢いで、物事に取り組んできた。姑息な手段でいじめてきたあいつら、応援しているふりをして近づいてきたくせにあっさりと裏切ったあいつ、ブスなわたしなんか好きになるわけなんかないといった最低男、早稲田になんか合格できるはずないと見下した目をして適当に接してきた先生、表では仲がいいふりをして裏ではとんでもないことをしてきた元友達。わたしは、わたしを馬鹿にしてきた人間たちの顔を、しっかりと覚えている。その顔を、鮮やかに覚えている。

許してやるつもりは毛頭ない。許そうともあまり思わない。そりゃあ、わざわざ口にだして「あいつを許しません」なんて宣言することは絶対にしない。個名をだして、されたことや言われたことを告白するなんてダサいことをする気にはならない。そんなレベルの低いお遊びをしてやるものか。ただ、自分の中で「許せないものは許さない」と納得しているだけなのだ。わたしの隣には、復讐が生きている。

ふざけるなよ、あいつ。
わたしを馬鹿にしたことを、わたしは一生忘れないからな。

許せないものは許せない。わたしは、そうやって生きてきた。許すことを正解だと、無理やり納得するのはもうやめた。世間にはこんなに「許すことができた誰か」がいるというのに、「許せないでいる誰か」の存在にはスポットライトがあたらない。許せない自分を隠したいから、みんな言わないんだろう。許せない自分を間違っていると思っている人がいるから、苦しみが消えないんだろう。くそくらえよ。

そんな風に、実はなかなかに怖いであろうわたしだが、大人になるにつれて状況は確実に変わってきた。頭にちらついては心を蝕んできた憎かったあの顔も、今では忘れるほどどうでもよくなってきたから、そういうことなのだろう。あんなにも憎かった顔が、思い出せないほどどうでもいい。許すよりも前に、自分には無関心がやってくるのだと知った。自分の中にいる敵が、すこしずつ減っていく。それが正解であることもわかる。
ただ結局、誰かへの「許せない」を抱えながら生きてきても、そのなかでも格段に許せない誰かというのは、過去に負けてしまった弱い自分であることだけは変わらない。自分のことはどうしたって忘れられない。一番真ん中にいる、許せなかった過去の自分が一番強い。何もできず泣くことしかできなかった、無力だった自分への悔しさに一番苛まれる。自分の中のラスボスは、いつだって自分なのである。それがどうしても虚しい。

だから、あの頃のあいつにも、自分にも、なにもかもに負けないために。忌々しい記憶に負けてまたいやな思い出をつくらないために、今日もまた必死で生きていくのである。悲しみに負けないように、むしろその悲しみを原動力にして、思いっきり成功を目指すのである。
生きていく限り、これからもいろいろな選択をしなければならなくて、その際にまたわたしの決意を「そんなこと認定」してくる人に出会うのだと覚悟をしている。世間ってやつが語る様に、成長するにつれて「そんなこと」を気にもしなくなる日がくるのかもしれない。成長と共に、許せる人間になるのかもしれない。なんかそれは胡散臭そうだし、とりあえず先のことは一切わからないから、今はとにかく自分の道をがむしゃらに突き進みたい。復讐目的もやっぱりまだあるけれど、今はそんなことよりも自分のやりたいことを一番に走りたいのだ。そして、ちょっとずつ読んでくれる人が増えたこのnoteで、読者のみんなと正解が増やせるような何かを書きたいのだ。
やっと、そう思えるようになった。10年前の自分に、今。会いに生きたい。

ガソリンの成分がネガティブな感情でなくなる日がくればそれはそれで清廉潔白なのだと思うが、今の私はこれでいい。とことん底辺で、やってやろう。いつかネガティブがいらなくなる日がくるとわかっているから、今はこの汚い感情に徹底的につきあってやろう。

書きながら、今までで一番しっくりきている。これが本当の自分だ。これが一番言いたかったことだ。ネガティブも正解なんだと、表現したかったんだ。明るいものの裏側にいる暗い存在をなかったことにするのではなくて、暗さにも意味があることを言いたかった。誰かが思い込んでいる間違いは、間違いでない。正解の数を増やせれば、人が死ぬこともなくなるのかもしれないのに、なにもできないまま一日が終わっていく。だけど究極、この世界のどこにも正解なんてものはないのかもしれない。

誰かの傷に寄り添うまではいかなくても、「そんなこと認定」はしない人間でいたいと改めて思った。負った傷の存在を垣間見たのなら、そっと絆創膏を差し出せる人間になりたいと強く願う。その傷がかさぶたになって、時間をかけてゆっくり治していつか完全に治る日がくることを願って、許せない今をお互いに生き抜いていければいい。過去のための今ではなくて、今を生きるための過去だ。呪いなんてものは、自分次第でどうにでもなる。

許すことが良い女の条件だというのなら、わたしは一生いい女でなくていい。
許すことが希望だというのなら、わたしは一生絶望を謳い続けたい。
許すことが正解だというのなら、わたしは一生間違い続けていきたい。

許しがすべてじゃない。許せないことは悪なんかじゃない。

重たさを背負って生きていくには勇気がいる。
絶望にまみれた世界にも、道はある。
悲しみを抱き、憎しみというわが子を背負い、それでも一歩一歩ふみしめて前へ進もうとする人間は、強い。

許せない自分を愛そうぜ。

#エッセイ #人生 #恋愛 #生き方

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