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いつかやってくるその日まで。紡ぎ続ける、ひとつずつ。

人の幸せには、総質量というものがあるらしい。なにかが突出してプラスに働くと、バランスを保つように不幸な出来事が起きるとのこと。
仕事がうまくいくにつれて私生活がボロボロになっていくわたしにとって、その話はとても納得がいくもので、聞いた時のわたしは頷いて情けない口の形で「ほ~」と言っていた気がする。実際は頭にグサリと矢が刺さったような音がするくらい、響いた言葉だったのだ。

総質量。人にはバランスがあるから、そういうものは、確かにあるのかもしれない。悲しい出来事が降りかかってきたと思いきや、次の瞬間にはとても良いことが起こったりする。ありきたりな表現だけれど、それはまるでジェットコースター。

とびきりのチャンスが舞い込んできた時に限って自分の調子は良くなくて、卑屈になって「それ、今じゃなくていいじゃん。もしかして何か裏があるんじゃないか……」と疑い、素敵を喜べないなんてことは珍しくもない。大抵のきっかけは、準備ができていない時に挨拶をしてくれるものだ。
さぁ、こい!チャンスよ!なんて思い構えていると、なぜかチャンスはこない。余裕がなくて、まさに虚無。自分が追い詰められているときにこそ何かがやってくる。仕事も恋愛も、タイミングは。やっぱり人生って、ちょっと厄介。



わたしは、もうすぐ29歳になる。世間でいう、大人になったのだろう。大人を超えて、「アラサー」なんていうレッテルを貼られ、若さが欠けた部類になることもある。
だというのに、わたしは自分の人生をうまくコントロールできない。そのような力を、いつまでたっても得ることができない。諦めてもう流れに身を任せてしまっている部分がある。「自分の思い通りに行くことの方が少ないのなら、それを楽しめばいいんだろう」。そういう考えができたら、どんなによかったか。
「前向きで、ポジティブな女性が好き」というあの言葉。呪いになって、ずっと心にこびりついている。わたしとは真逆の、誰かの理想像。

少しスピリチュアルな話になるけれど、この世の中には、わたしたちの目には見えていないだけの、いろんな次元がある気がする。信じるか信じないかは人それぞれというけれど、確かにきっとあるのだろう。そうでなければ、語れない歴史が幾多もある。
神様が絡んでいるのなら、果たして。
どうしてこんな仕打ちをするのと言いたくなることが多かったここ最近。
そのうえびっくりするくらいの幸せも多いここ最近。ガッタンガッタン音を鳴らして質量がシーソーみたいに動くものだから、心は毎日船酔い状態。
お腹が痛いときには神様を頼る。神様がいるものだと思って、願う。人は、究極の時に神様を思い出す。
神様ありがとうとか、神様お願いとか。

神様って、いるんだろうか。

ちょっと前に、人間関係で大打撃をくらった。今では笑っちゃうくらいバカみたいなことなのだけれど、その時のわたしは暗黒サプライズ(?)を受けたみたいな。
心が、大火傷した。
書けるのは、もういいかなと思ったから。その時の自分のことも、相手のことも、少し許せるようになったから。というよりも、こうやって「書くネタだったんだな」と消化できるようになったんだろう。
基本的に人のうわさは信じず、自分が接したその人の姿がすべてだと思えるようになったわたしだけれど。人のうわさも、あながち間違ってないんだなとまたひとつ学べた。そこにある事実に悲しみ、人間がこんなことをするのだということにショックを受けていた。
生き物を生理的に無理だと思ったのはいつぶりだろう。その感覚にぞわっとして、数日後に蕁麻疹がでて、細胞レベルで拒否をすると皮膚にでるのだと知った。
本当にかゆかった。全身にでたのは初めてだった。またひとつ初体験記録を更新。ありがとう。

この出来事がおきた次の日。わたしはしっかり早起きをして、気づいたら福島の地元の駅にいた。引きこもっていたらダメな気がして、むくりと起きて東京駅に行き、新幹線に乗って福島の故郷に帰っていた。
いざついたら、びっくりしすぎてジブリみたいに逆毛がたった(この表現気にいってるの。ぶわぁぁ!って状態を伝えるのになんかいい気がしていて!)
おばあちゃんのお墓参りをするために、ユリの花を買って、一時間かけてお墓へむかった。
優しい風が吹く、福島県いわき市。わたしは、ちいさくうずくまりおばあちゃんの前でひとりごとを繰り返した後、また一時間かけて歩いて岩間の海へむかった。堤防に腰掛け、ぼんやりと海の音を聞き、潮風に身を任せた。
こんがりと背中が焼けた。くっきりとノースリーブワンピースの跡がついた。
けれど、火傷した心は幾分か軽くなっていた。
帰りの新幹線で飲んだ缶ビールは、美味しかった。



等しく人間は、自分が「善」であろうとする生き物な気がする。どんなに自分が思う道を信じようと生きていても、自分は自分!他人は他人!と思おうとしても、どうしても人と比べて上にいこうとする。自分は上だと思おうとする。どんな人にもその性質は間違いなくある。見栄やプライドの中には、必ず人との比較がある。誰かと比較して、自分の存在を確かめている。もちろんわたしも、そうだ。

純度百パーセントの優しさって、この世の中にどれくらいあるんだろう。計算のない優しさは、どれくらいあるんだろう。計算していると思いきや、計算外の人の情に流されるのが人というもの。やるなら徹底的に計算すべきなのに、それができなかったりする。

人の本当の優しさとは、言葉の向こう側にあるのかもしれない。流れ行く時間を生きているわたしたちの目には見えなくて、次元の違うところにあるから気づかないし、気づいてしまうとそれに甘えてしまうから、目に見えないようにできているのかもしれない。でも、感じ取れるようにはできている。感じれる人には、わかるようになっている。
ある意味、心霊現象と近いものを感じる。わからない人にはわからない。でも、信じる人には突然目に見えたりする。それは突然に。
そう考えたら、みんなが優しくないことに納得する。優しくなれない、優しくならない、優しさを選ばないんじゃなくて選べない。

それでも、わたしは優しくありたい。
死にたくなる夜も、忘れたい過去も、すべて優しさに救われてきたから、わたしも優しくなりたい。誰かを救うためとか、誰かを慰めるためとか、そうじゃない。
ただ、自分がそうでありたい。そんな自分で、他人と関わりたい。ひとりで生きていられるのは、ひとりで生きている誰かがいるから。ひとり同士が関わっていく、人生。人は、独りじゃない。


今、夢に見ていた自分がそこにいるからこそ。
大嫌いだった昔の自分と手を繋ごうとしている。
今、また繋がりたい縁に自分から手を伸ばしているからこそ。
もう繋がりたくない縁に縋らない自分がいる。
そうなれている自分が、ちょっと好きなのだ。好きになれているのだ。あの時の自分に会いに行けるのならば、思いっきり抱きしめてあげたい。
今のわたしがいるのは、あの時を生きた私がいたから。
今のわたしがいるのは、これを読んでくれるあなたがいるから。
それはどうしたって奇跡で、ありがとうって叫んでも足りないくらいの感謝だ。

「行動あるのみ」とか言い続けて暴走するこの性。だいぶ面倒くさいだろうし、あまりにも破天荒すぎる。恵まれていることに、わたしの周りにいてくれる人はみんな優しいから、こんなわたしを見て心配してくれる。ごめんねと、その倍のありがとうの気持ちでいっぱいだ。
一方で、離れていく人もいる。悲しい別れもある。自分が悪い時もあるし、お互いの方向性の違いもある。避けられない別れもある。
だけど、出会いと繋がりが確かにある。動いていたから掴めたものがある。

今、わたしはとてもいいことで迷えていると思う。この迷いをいつかきちんと書けるように、動いている。
誰かを見下して自分を上にするのも、誰かを羨んで自分を可哀そうにするのも。自分に自信がなければやりがちなことだ。
でも、肩を並べたいあなたがいるから、成長を見て欲しい人がいるから。その心に触れたい人がいるから。
わたしは、挑戦し続ける。行動し続ける。
この際、綺麗事でいい。綺麗事くらいがちょうどいい。
思うだけじゃなく、行動でそれを示したい。
想うだけじゃなく、行動で愛を表現したい。
そういう人間であることを証明し続けたい。
そうあれるように、人への尊敬を忘れない。
手を差し伸べてくれること、遠くから見守ってくれること、今自分の周りにいてくれる方のことを。
人生の岐路に立っているかもしれない今。絶対に忘れない。恩返しができる生き方をする。したいじゃない、する。



今だけを見るのではなくて、数十年後まで考えて生きていく、という器用なことはわたしにはできない。明日死んでもいいって思って生きている気がする。福島に帰るたびに、その気持ちが大きくなる。
でも、確かに呼吸をしている今は生きている。ならば、生きる。生きたかったかもしれないのに、生きれなかった人がいるのを目の当たりにしたから、生きれるうちは生きるのだ。
きっと今は、「点」だ。振り返ってきたこれまでの足跡が連なって、点が結ばれて線があることに気づく。一歩一歩、遅くても歩んでいく道が点で、その点がないと線にならないから。
ひとつずつでいい。ひとつを、いくつでも増やしていくんだ。歪でも滲んでも、点にしかすぎない。
力んで失敗して、馬鹿みたいにただそこが濃くなってしまっても、見えないくらいに薄くなっても、消したい黒歴史だとしても。すべてがつながって線はできていくから、線をつくるために毎日を生きていく。わたしにとってはまっすぐな線も、誰かにとってはまがっていて、でもそれでいい。それがいい。
点を作って生きていくわたしたちは、生きているだけでクリエイターだ。表現という言葉にとらわれて、創造の難易度が高まっているけれど。
全人類が表現者だと、わたしは思う。人の数だけ、表現がある。表現とは、正解を増やすためにあるもの。人生に不正解なんて、なくていいのだ。

無責任だと思われるかもしれないが、わたしは「死ぬときに誰かに迷惑をかけないように」とか「老後に迷惑をかけないように」とか思わない。潔く死ぬと決めていて、長生きする気はまったくない。死ぬ方法は、選べる時代になっていることを知っている。
今の自分の方がよっぽど人に迷惑をかけていると思う。誰かの人生の、大事な時間をもらっていることに、まずは感謝をしたい。

生きていくことに理由なんかいらない。持たなくていい。
ただわたしたちは、生かされている。生きていくという未来を、自分で選んで進んでいる。
一歩ずつ、歩幅は違えど、描く線はそれぞれで。その線が交わることで、世界が彩られていくのだろう。

幸せの総質量。
わたしはわたしのことをまだわからないけれど、ひとつ思うことがある。
「自分が大きくなれば、質量も変わる」のではないかということ。成長して、心の器を大きくしよう。そう思うのです。

いつかやってくるその日まで。
きっとその日にはおばあちゃんがわたしを迎えてくれるから。
会えなかったあの人が、きっといるから。いてくれるから。

わたしは死ぬ気で、死を待ち続けながら。
点を紡ぎ続けていきたい。
その気持ちで生きていく。


いつも応援ありがとうございます。