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走り出せもしないやつが、誰かの汗や涙を笑うな

「夢を語る人」はこんなにもいるのに、「夢を叶えようとする人」は圧倒的に少ない。これがしたい、あれがしたい、こんなものをつくりたい。自分の言葉で理想を説明するまではできるのに、その次の段階に進もうとする人は、語る人の半分もいない気がする。スタート地点を決めるのはいたって簡単だが、走り出すのはだいぶ難しいみたいだ。

人が決める大抵の夢は、どんな形であろうと叶う可能性が絶対にあるとわたしは信じている。あの有名な歌手も、あのアスリートも、最初から成功者だったわけではない。私たちが見えないところで戦って来たから、人に見せない悔しさや悲しさがあったから、それでも前に進むことをやめなかったから今がある。ゴールまでを計算して、そこへ一直線に走った結果でしかない。
誰しもが、0からのスタートだ。例えばそれが血筋によって踏むステップが変わるなんてことは時たまあるのかもしれないが、頭取の息子がなんの制約もなく頭取になれるわけでもない。前例がある世界で活躍するのには、それなりの覚悟がいる。
自分が目指す100に届かなくても、ある程度まで進むことはできるはず。その「ある程度」こそが、長い目で見たときの成功の足跡なのである。ある程度に満足しない人間だけが、最終地点にゴールできる。
欲を雄弁に語るだけではなく、実際に手や足や頭を使って動いた者だけが到達できる領域が確かにある。「やってみたい」を形にしようと動き出した瞬間から、人はすでに前へ進んでいるのである。

noteを書き出してから、知らなかった世界とまだ向き合えていなかった自分の裏側をたくさん知った。特に大きな野望もなく、書きたいと思った時にnoteの存在を知ったから筆をとったけれど、書き始めた頃はその自信のなさからいつも人の目を気にしていた。書いたものを中傷されると自分を否定された気にもなったし、いいねの数にいちいち一喜一憂していた。知り合いが見ているであろうSNSに投稿するのも怯えていた。

書かなければ批判されない。書かなければ怖くない。
「もしも書かなかったら」の世界を考えていたこともあったけれど。

今となってはそんなのはどうでもいい。そんな、意図的な誹謗中傷なんて、どうだっていい。世間の声を無視する日はこれからもないけれど、傷つける目的で近づいてくるやつらなんて、正直自分のこれからの人生に寸とも関係がないとさえ思えるようになった。  
書いていなかったらいまのわたしはいない。これから先、どんな賞をとろうとも、誰に認められて、どんな会社にはいろうとも、肩書きもひけらかすこともなく、ただの「saku」として書いていくだろう。「saku」の後ろにアットマークなんちゃらが続く日は、永遠に来ない。少なくともわたしの将来の夢は、物書きに関わるものであるから、今書くことが自分との戦いである。ここをやめる瞬間というのは、2つの理由だけだと既に自分の中で決めている。それはまだ、ここに書くのはやめておくが、とにもかくにもわたしはまだ、戦うのである。

発信者をサンドバッグに自分のストレスを発散する人間は一定数存在するが、目標がある人間にとって、そんなのは敵ではない。敵とするべきではない。
いつも、時間がない。いつも、暇がない。
余裕はあるのに、ずっと余裕がない。戦い続けるということは、持久走をずっと続けていると、ふと楽になるあの瞬間のようだ。苦しい中で走り続けたからこその安定と、バランスが崩れると呼吸ができなくなる、あの感覚。

つい最近、長年仲良くしていただいている先輩が、とある日本大会でグランプリになった。あっという間に世間に名が広まり、その方は今や日本人の注目の的である。さすがだなと思い感心したが、正直あまり驚かなかった。であったころからなんだか大物になるような気がする、とっても素敵な人だったから、世間がやっとその魅力に気づいてくれてよかった、とさえ思う。
逆に、それほどまでに凄い方と日常的に関わっていた自分には驚いたりもした。人間、いつどこでどんな人と交わっているかわからないもんである。

そんなある日、その方から何気なく言われた言葉を、ふと思い出した。なんとなく落ち込んでいて、カリカリしていたときに思い出したもんだから、ふっと肩の力が抜けた。

「わたしさ、なんかあったとき、なんとなく(sakuに)相談しようと思うんだよね」

よく知りもしない誰かからたくさん「可愛い」と言われるよりも、よっぽどその言葉が響いた。人間の「なんとなく」は、感性から来る勘であると思うからこそ、感覚的に求めてもらえたのは、実はすごく嬉しかった。尊敬する人がなんとなく思い出してくれるのは、ものすごい奇跡なのではないか。わたしも彼女に負けないくらい、自分と戦おう、結果を出そうと改めて気が引き締まった。

思えば、私の周りにいる素敵な人は、そしてさらに憧れの対象は、自分と戦いつつ「何か」をしている人だ。プライドを持って、自分が欲しいものに全力で取り組んでいる人。成功するかしないかわからなくても、自分が決めた道を走り続ける意思を持っている。
そこまで頑張って働かなくても、そこまで立派な夢を持たなくても、それなりに生きていけるこの時代で。彼らは自ら戦士となり、まだ見ぬ道を素足でかけていく。途中で襲いかかる悲しい何かに屈することなく、自分の信じる道をただ進んでいく。
仕事でも趣味でもなんでも、自分で選んだ道を自分で歩いていくその背中は、いつだってかっこいい。デザインでも、音楽でも、起業でも。実際に走り出してる者だけが、これからの社会をつくる勇者となるのだろう。饒舌にありきたりな軽い言葉を連ねてそれっぽいことを言うなんて誰にでもできるけれど、実際に道を切り開いていく人には何も及ばない。憧れに手を伸ばそうと必死なその身体に、いつか絶対に羽が生える日が来る。

戦場で泣く資格があるのは、そこで己を振り絞った者だけだ。泣き叫び、苦しみ、血と肉を震わせ、自分の限界を知った者だけが、戦場で声を上げることを許されるのである。
戦ってもいないガヤに、その渦中にいる誰かを評価する資格は、これっぽっちもない。ゼロだ。
挑戦もしないやつが、誰かの挑戦を評価しようとする、そのことにまずは恥ずべきなのではないかと、辛辣ながらわたしは真剣にそんなことを考える。
ブラウン管越しに偉そうに世間のあれやこれやに批評をする人々は、その道のプロでは決してないが、エンタメとして意見を言うことを求められる。その意見に一喜一憂し、面白がり、タレント一人が発した言葉でニュースにもなり世間が盛り上がる。蓋を開けてその盛り上がりを見てみると、まあ、大体暇な人が反応するのだ。毎日忙しくしていれば、知らないどこかの誰かの不倫騒動なんて、どーだっていいはずなのに。
その場でどっしりと座り、動こうともせず発言するだけの人間は、面白くもなく、役に立たないあの政治家と一緒だ。分かったようなことを言う人間の顔つきは、見ていられないほど可哀想なものである。あなたの顔つきは、どうだろうか。あなたの筋肉は、動いているだろうか。

自分の人生なのに、ガヤでいいのか。いいんだろうか。
走りだせないもどかしさ、その一歩を踏み出せない弱さの憂さ晴らしがしたくて、尊い誰かの汗や涙に八つ当たりをするのはお門違いだ。

走り出してから悩め。スタート地点に立ってから、その道に怯えろ。
既に走り出している走者や戦士に、ただ嫉妬するだけして、己を越えようと奮闘するのをやめるな。
夢中な人に勝てるなにかなど、どの時代のどこにも存在しないのだ。

なにもしようとしないやつが、
なにかになろうと必死な誰かのことを、
簡単に笑ってんじゃねえぞ。

#エッセイ #コラム #人生 #仕事

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