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私にブスの呪いをかけていたのは、私だった

アンパンマンは、自分の顔をどう思っていたんだろうか。敵に顔を汚され力尽きそうになれば、新しい顔が飛んでくるあのヒーロー。
顔用の型があるから、飛んでくるのはいつも同じで完璧だ。焼きたての、まるまるとした美味しそうなアンパン。「おいしくなあれ」と心を込めてこねられ、窯で焼かれ、ピンチの時に飛んでくる、あの顔。

彼は、今と違う顔になりたいと思ったことはなかったんだろうか。
そんなことを、ふと考える。
もっとハンサムに、もっと綺麗に、もっとみんなにちやほやされるような、今とは違う自分になりたいと思ったことは、ないのだろうか。
本当は、顔にコンプレックスがあったりするのだろうか。人気がある違うパンに憧れたり、丸い鼻やつぶらな瞳に、自信をなくすこともあったのではないか。
わたしには、パンの世界のあれこれはわからない。
だけど、命に関わる問題が起きた時に、とっさに綺麗な顔が飛んでくるなんて、シンプルに羨ましかった。
顔で苦しみ悩んでいたあの頃のわたしは、確かに何度か死にかけたけれど。どんなに望んでも、新しい顔は飛んでこなかった。鏡を見るたびに絶望して、いっそ作り変えて仕舞えば楽になるのかとただ思うだけで、整形する勇気もなく、卑屈になっていく。そんな、ブスだったわたし。

汚れもなく、新品で、綺麗な顔をくれる、神様。
ジャムおじさんは、本当にこの世にいないのだろうか。もしいたとしたら、わたしに顔を投げてくれるだろうか。

わたしはこれまでずっと、自分の顔が嫌いだった。
noteでも散々書き散らしたけれど(これこれをご参照ください)、本当に自分の顔が嫌いで、鏡を見るたびに泣きたい気持ちでいっぱいになることがたくさんあった。
投げつけられたブスという言葉に、悔しいと思うこともなくなるくらい、ブスが日常に溶け込んでいた。あの日、好きだった彼に言われたブスも、クラスのカースト上位の女の子たちに笑われたことも。
もう遠い昔のように思えるけれど、たしかに心に残っている。
うまく言っているときに限って、不意に思い出して、地に叩きつけられる。わたしを好きだと言ってくれる男の子が目の前にいても、「お前みたいなブス、本気で好きになるわけないだろ」と、いつかの誰かの声が聞こえてくる。

わたしは、女である自分が嫌いだったのかもしれない。女らしさなんてものは何歳になっても分からなかったし、女であることを強要されるのも嫌だったのだろう。
だが、皮肉なことにわたしはこの24年間、全ての日々において確かに女であった。好きな男の子に恋焦がれて胸をときめかし、休日は少しオシャレしてデートに出かけたりなんかする、女だった。ブスと言われて傷つくのは、可愛い自分でいたかったからであり、可愛いと言われたかったからなのかもしれない。せめて普通に、ブスと言われないくらい、見る角度によっては可愛いって、そう言われたかったのだろう。

顔が可愛かったら。
この世の中から、理不尽が消えるのだと、あの頃のわたしは本気で思っていた。
全ての原因は、この見た目だと。ブスだからうまくいかない、ブスだからいじめられる、そう、全部ブスだから。
そうやって、起こりうる全ての物事を、すべて「ブス」のせいにしようとしていた。

ずっと自分をブスだと思って生きてきたのだけれど。

思えば、めっきりブスだと言われなくなった。
あれ、と気づいたのが、ブススパイラルから脱却しかけている、いまのわたし。

最後に言われた日をはっきり覚えてしまってはいるのだけれど、それはきっと、この先のわたしの人生に全く関係のない人からの言葉だったから、もういいとする。
大人になった今。わたしをブスだと笑う人が、たしかにいなくなった。 そう、明らかに、わたしのまわりにはいない。人間関係の取捨選択を自分でできるようになったからかもしれない。そして、そんないちいち他人の顔を気にするような、暇な人がまわりにいないからなのかも。

変わるきっかけになったお話を、ひとつだけ。

最近、わたしを好きだと言ってくれた人がいる。わたしをとてもよく見てくれていて、どんなことをしても、温かく見守ってくれる人だった。とても、ありがたいし、自分は恵まれていると思う。

そんな彼は、私にこんなことをいってくれた。(編集して書いてます)
「もう自分のことをブスだっていうな。昔はそう言われていたかもしれないけれど、今は誰も思っていないから。自分で自分の価値を下げるな」

今までのわたしだったらきっと、その言葉すらもうまく受け止められなかったかもしれないけれど。
なんだか、今ならわかるのだ。

彼のいう通り、わたしは。

自分をブスだと思うことで、安心していたのかもしれない。安心しようとしていたのかもしれない。あのときこの人にこう言われたから、あの人がそう笑うから、わたしはブスに違いない。自分に言い聞かせて、「自分はブスだ」と納得させようとしていたんだろう。

耳に響く過去のトラウマを理由に、うまくいかないこと全てに対して、「どうせわたしはブスだから」と、言い訳をしたかっただけなのかもしれない。
口癖のようにブスを放ち、楽になろうとしていた。うまくいかないのは、自分のレベルの低さや努力の足りなさであるからかもしれないのに、ブスであることを理由にすれば、それで済むと思っていた。
ブスだから、だめなんだ。ブスだから、失敗したんだ。だってブスだから。
呪文のようにそう言い聞かせて、自分を本当の「ブス」にしていたのは。
誰でもなく、わたしだったんだ。

ブスでいれば、楽だった。
言われた側でいることで、勝手に被害者面をして、いないはずの加害者を自分で増やしていたのかもしれない。あの人もきっと、わたしをブスだと思っているに違いないと、勝手に疑っていた。そうやって、どこかでわたしも、加害者だったんだ。

あの頃わたしをいじめていたあいつらは、今でもこの空のどこかに確かにいて、それは消し去ることのできない過去ではあるけれど。
今のわたしは、過去のわたしとは違うのだ。今を生きて、いるのだ。
いつのまにか目が曇り、思考を停止し、聞こえない声に耳を傾けていたのは、わたしだ。ブスであることを自分で認め、自分をブスにしていたのは、紛れもなくわたし自身だったのだ。

ごめんね、今まで。無視して、ごめん。
勝手にブスだって決めつけて、いじめてごめん。
顔を理由に目を背けていた本当の自分。
今なら、ちゃんと向き合える。もう、蔑ろになんかしない。

起こり得るこれからの出来事を乗り越えるのは、「ブスなわたし」ではなく、「わたし」だ。わたしは、わたしで生きていく。

アンパンマンは、顔になんてきっと、興味がなかったのだ。そんなことよりも、したいことやしなければいけないことが、彼にはたくさんあった。
自分の顔も、人の顔も興味がなかったのだろう。お腹が空いている人には自分の顔をわけあたえ、困っている人に手をさしのばす。
それが彼の、生きる意味だ。

ジャムおじさんは、わたしの前に現れなかった。

それはきっと、わたしの顔は変わる必要がないと、ジャムおじさんがどこかで微笑んでくれていたからなのかもしれない。
本当の問題は、過去にとらわれ今を生きれていない、わたしにあったのだ。そりゃあ、顔は今でも嫌いだし、もっと可愛くなりたいと思うけれど。
その欲望は、いつまでも満たされないということも、もう自分で気づいている。一つクリアしたら、また気になって、また顔が嫌いになって、その連鎖を繰り返して自分が嫌いになるのも、もう。そんなのいいのだ。そんなことをして、年をとるなんてもったいないのだ。

今の自分が、きっと今までで一番最高だ。過去を振り返ったとき、あの時に戻りたいと、そう思えるくらいバッチリな状態で生きていなければ、これからの自分に失礼だ。今を大事に、好きな人を大事に、嫌いなアイツには丁寧に。
今できることをちゃんとすることが、幸せになる道なのかもしれない。

きっと、整形しなくてよかった。したくなる日も必ずまた来るけれど。そして、自分のなかの「ブス」と向き合わなければならない日が来るかもしれないけれど。
その度に、このnoteを見返そうと思う。ここからがはじまりなのだ。

ブスなわたしに、さようなら。
もう呪いはかけない。
可愛くなる魔法しか、自分にはかけてあげない。

#エッセイ #ブス

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