日記、2023,01,22。
微妙な低空飛行で生活している。
一応、午前中には目を覚ますが、それは猫の催促と自分自身の尿意に依り、仕方なくだ。しかも酷い話だが、自分の生理現象が限界に達するまで惰眠を貪っている。猫はそれまで、何かを云い募り、わたしの顔に鼻を近づけ、髭で訴えかけている。それを邪険にし、布団に潜ってしまうのだ。
寒いし、昨晩と謂うか、明け方に寝たばかりだからだ。
しかし七時頃には起き出し、先づは漏らす前に便所へ行き、猫のトイレを始末し、ご飯をやり、水を与える。自分はと謂うと、そのまま、また二度寝に這入る。朝食は摂らない。水すら飲まない。脳味噌がそこまで活動していないのだ。
熟睡する時もあり、うとうとするだけの時もある。
午もだいぶ過ぎてから、最初の食事にする。実に適当なものである。雑穀の炊いたものが冷蔵庫にあれば、それにレトルトの何かや納豆などをぶち込んで喰う。それだけだ。家にじっとして居るだけの貧乏人が、真っ午間から凝った料理など食すものか。平日のカフェーとかでランチを喰っているのは大抵、有閑マダムである。
ちゃんと働いている女性は職場へ弁当を持ってゆき、飲みものも持参である。下手をするとその飲みものは水道水であったりする。
しっかり稼いで家賃も払っている女の子より、家事だけしている女性の方がこっそり贅沢している。そう謂う光景を実際によく見るのだ。高過ぎて喰ったことはないが、オムライスの専門店やサレオツなカフェーに飯時、行列を作っているのは四十代、五十代の主婦たちである。しかも絶対ひとりではない。
これくらいの世代の女性はひとりで飲食店に這入れない傾向があるらしい。
わたしは十代の頃から何処へ行くにも単独で、マックだろうがケンタッキーであろうがひとりで這入り、しかも金がないのでポテトのみとかを平気で頼んでいた。成人してからも、当たり前のように居酒屋へひとりで入店していた。
当然のことながら映画館もライブハウスもひとりだし、何かのイベントもひとりきりだった。
何故なら、友達が居ないからだ。
他人へ対する攻撃的な文言として「あいつは友達のひとりも居ない」と謂うのは、昔からある。恐らく、平安時代にもあったのではなかろうか。
ひとりで過ごせる、時間を熟せる、捌いてゆけると謂うのは一種の技能だと思うのだが、何故それを愚か者どもは蔑むのだろう。自分には到底、達することの出来ない境地だからか。
凶悪犯罪者は大抵、単独犯だが、盗みやリンチをする類いの者は衆を頼む。ひとりでは何も出来ない肝っ玉の小さい輩どもである。個別に尋問すると非常に温順しく、なんでも素直に話すらしい。
ひとりで何も出来ない、と謂うひとは、取り敢えず衆人環視の裡、つまり社食や職場の机で、ひとりきりで飯を喰ってみよう。誰も見ていないことが判る筈だ。見ていたとしたら、声でも掛けようかな、と思っている同僚くらいである。
あなたのことなど世間のひとは、1ミリも気にしていないのだ。そんなことより、自分のことに精一杯でアップアップしているのだ。つまり、他のひともあなたと同じなのである。あなたも自分のことしか考えていない筈だ。
つまり、そう謂うことなのである。自意識過剰にしてストレスを溜めるのは愚かしいにもほどがある。実態がないものと戦っているファンタジーの戦士のようなものだ。鎧を脱いで、楽になった方がいい。
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