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倭人の正体【東南アジア・インド】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は東南アジアの歴史から日本の古代氏族についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。


中国の正史の中で東南アジア諸国のことをはじめて組織的に記述したのは唐の姚 思廉(よう しれん)が629年に編纂した[梁書](りょうしょ)の海南伝です。


唐の姚 思廉はこの海南伝の序文で
《晋代にはこれらの諸国で中国と通交するものは少なかった。宋、斉の時代には来航するものが十余国となったので初めてこれに関する記述がおさめられた。梁が建国して以来、その正朔(こよみ)を奉じて入貢し、航海して年ごとに来航する国とその回数が前代をこえた》
と述べています。

このことからも東南アジア諸国にとって大きな変化のあった時期は、5世紀の中頃であったことがわかります。


[宋書]南夷伝には林邑(りんゆう)、扶南、訶羅陁(からだ)、訶羅単(からたん)、婆皇、婆達、闍婆婆達(じゃばばたつ)の国名があげられています。

[南斉書]には林邑と扶南の2か国だけ記載があり、[梁書]海南伝にはマレー半島にあったと思われる国として頓遜(とんそん)、毗騫(びけん)、盤盤、丹丹、干陁利(かんだり)、狼牙脩(ろうがしゅう)の6カ国をあげ、扶南国王范蔓(はんまん)が征服した(しようとした)国として屈都昆(くつとこん)、九稚(くち)、典孫等の十余国、及び金隣国という国が登場しています。


金隣国はサンスクリット語で「黄金の国」を意味するスブァルナブーミの訳であると思われ、マレー半島南部のどこかにあった国と考えられています。



また現在の雲南省やミャンマー北部辺りに存在した南詔国という国はチベット・ビルマ語族の王国ですが、[旧唐書]によれば開元27年の西暦739年に都城である大和城を大理市南方15里太和村に遷都したとあります。


大和城の名称の由来ついて[新唐書]南蛮伝によれば、「和」は白蛮語または夷語で山坡陀(さんはだ)すなわち山の険阻の意である、とあるので大和城は「大いに地勢の険しい山城(さんじょう)」という意味の呼称であると云われています。


また唐宋時代の史書は大きな和で「大和」と記し元代以降の史書には太い和で「太和」と記されることが多い傾向があります。



当時のマレー半島には現地の地名を称していた国とサンスクリットの名称を用いていた国があり、これはインドからの商人の来航によって形成された国と、現地の住民がつくった国との相違を意味しているとあります。


先程[梁書]海南伝に登場した頓遜国は元々5人の王がいましたが、扶南国王の范蔓によって征服されたとあります。

[太平御覧]の扶南記によれば頓遜国はインドからの移民が住みつき仏教の僧侶やバラモンが住んでいたと記されています。

頓遜国の権力者はその名称からみて扶南もしくは現地の出身者であったことがわかります。



次に盤盤という国はマレー半島中部のバンドン湾にあった国で、この国は扶南国王となった憍陳如(きょう ちんじょ)がインドから渡来してきて最初に滞在した国とされており北インドと東南アジア方面の交通路上の中継地点であったことがわかっています。


盤盤国は時代が下って隋の時代まで続き、隋の時代には現在のタクワパーが交易の港となり、ここはインド側の史料にはタコラとして記されています。


【扶南国】
扶南国というのは東南アジア大陸部では最も古く成立した国家とされていて、紀元後1世紀末ごろにメコン川下流に栄えた古代国家です。


扶南の語源は諸説ありますが、オーストロアジア語族のモン・クメール系の言語で「山」を意味する「プノム」を写したものと言われ、扶南国はモン・クメール系の民族が主体だったと考えられています。

3世紀前半には大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣し中国の三国時代の呉からは通商使節が来ていたと云われています。


法律用語や官僚などが使用していた公用語はサンスクリット語で、扶南国は7世紀にクメールによって滅ぼされるまで、東南アジアの歴史の中で重要な古代国家でした。


1942年にフランス人のマレルがオケオ遺跡(オクエオ)を発見し、この発掘調査によって扶南国はインドやローマ帝国、後漢などと交易し繁栄していたことが判明しています。


発掘された荷札にはブラフミー文字が用いられています。

ブラフミー文字は日本の神代文字である阿比留文字に類似している文字で、日本の古代氏族である対馬国阿比留氏や、筑紫国安曇氏と深く関連しています。



扶南国に関する記述で最もまとまったものは[梁書]扶南伝です。

各代の国王の名前が記されてあり、扶南王の名は混滇(こんてん)やその子の混盤況(こんばんきょう)、范師蔓(はんしまん)などで、呉の官人である康泰(こうたい)が扶南国におもむいた時は范師蔓の姉の子である范旃(はんせん)が王の時代で、呉の康泰が扶南に来た年代は黄龍元年の229年と認められているため、国王の在位年代などから推定すると扶南の建国は紀元後1世紀頃と考えられています。


[梁書]の扶南伝では扶南国の建国について次のように記されています。

《扶南国の人々はもともと裸体で入れ墨をし、頭髪を伸ばして体を覆い衣服を作りませんでした。その国は女性を王としていて彼女の名は柳葉(りゅうよう)といいます。
彼女は年若く活発で男性に似たところがありました。
その南に徼国(きょうこく)があり、そこに鬼神に仕える者で混滇(こんてん)という者がいました。
混滇はある晩のこと神から弓を授けられ商人の船に乗って船出する夢を見ます。
翌朝神廟(しんびょう)に詣でると神木の下に弓があったので夢のお告げに従って船出し、ついに扶南の外邑に至りました。
女王柳葉の部下は船が来るのを見てこれを奪おうとしました。
混滇が弓を引いて彼らの船を射たところ、弓は船板を貫き従者に当たって止まりました。

女王柳葉は大いに恐れ部下を率いて降伏すると、混滇は柳葉に対して布に穴を開けて頭を通し、身体を露出しないようにすることを教えました。

こうして混滇は遂に国を治めることに成功し、柳葉を妻として息子達をそれぞれ7つの邑(くに)の王としました。》
とあります。


この建国説話はインド文明が東南アジアへ伝来したことを背景として混滇はインドから渡来した人物だと解釈されています。


しかし混滇が伝えた文化に貫頭衣があり、[後漢書]南蛮伝では貫頭衣は東南アジア固有の文化と記され、[魏志]倭人伝にも登場しています。


オケオ遺跡からはローマ皇帝のアントニヌス・ピウスの肖像が刻まれた硬貨やローマ製と思われるガラス玉が発掘されていますが、紀元前4世紀ごろのオリエント史を見ると、アケメネス朝ペルシャとマケドニアの覇権交代があり、これに伴って海上ではフェニキア人からギリシアに権力が移りました。


オケオの港にギリシア人がやって来たのはこうした経緯があったからですが、ギリシャ軍といってもフェニキア人と混血しており、紀元前10世紀ごろにフェニキア人と同盟した古代イスラエルの国王であるソロモン王の子孫達はバビロン捕虜の後にペルシャ皇帝に解放されてマケドニアがペルシャを倒したあともギリシア領土の中で商業を牛耳りシルクロード各地にはユダヤ人の商工会議所や倉庫が並んでいました。


つまりオケオ遺跡の港にローマ皇帝の硬貨を持ち込んだのはギリシャ人と共にユダヤ人もいた可能性があります。



紀元前9世紀のソロモン王ののち紀元2世紀頃までユダヤ人は継続してマレー半島を越えてメコン川にやってきた可能性があります。


オケオ遺跡から扶南国は様々な国と貿易をしていたことが判明しましたが、扶南国の王権は北インドとの交渉がはじまったことによって急速に強化されたものと思われます。


扶南王の混盤況王と范蔓王の時代にはマレー半島の10国を占領していましたが、この時のことが[南斉書]には《扶南の人々は悪知恵が働き、付近の服従しない人々を略奪して奴婢とし金銀綵帛を交易する》とあります。


[梁書]の扶南伝によると3世紀辺りまでの風俗は《国の人はまだ裸体で婦人だけが貫頭衣を着ていた》とあるので、さほど変化していないことがわかります。


しかし4世紀の中頃になるとインド文明の影響が明確になっていきます。西暦357年扶南王の「竺旃檀」(じくせんだん)が中国に使者を派遣しているのですが、この「竺」というのは他の用例から見て北インド出身の人々もしくはバラモン教を奉ずる人々を意味し、「旃檀」というのはクシャーナ朝のカニシカ系の王の称号であるチャンダンの音を写したものとされています。


このように4世紀頃の扶南国にはクシャーナ朝の文化がある程度影響を与えていたと考えられます。



【林邑国】
扶南国とほぼ同じ時代には、現在のベトナム、クアンナム省(広南省)辺りに林邑という国があり、別名チャンパ王国といいます。

一方、紀元前10世紀以降の古代インド、ガンジス川流域にはアンガ国という海洋国家が存在しており、アンガ国は首都であるチャンパー又はチャンパプルを中心に栄えていました。


ベトナムのチャンパ王国を建てたチャム人というのはアンガ国の植民者であり、本国インドのアンガ国がマガダ国に滅ぼされると、インドのアンガ国にいたチャム人はベトナムへ逃れ、その後マガダ国の勢力はマレー海域にも及んだと考えられています。


アンガ国の人々はベトナムから遼東を経て九州の日向に安羅国を建てるのですが、安羅国は多婆羅国、伊都国などと連合して邪馬台国を建てています。


邪馬台国は耶婆提国と関係があり、耶婆提国というのは現在のジャワ島かインドネシアのスマトラ島、あるいはその両方に存在した国で、先秦期に中山国を建てた民族が後世に建てた国とされており、後の林邑国や沖縄の久米島などにも関係しています。


中国東晋時代に法顕という人物が記した[仏国記]という旅行記では耶婆提国は古代、中国と西洋を結ぶ海上連絡路の重要な場所であったと記されています。

西暦411年、中国の僧である法仙が石子国(現在のスリランカ)から東方へ帰国する際にこの地を通過したとあります。



邪馬台国は[古事記][日本書紀]では完全にスルーされた国ですが、[隋書]倭国伝や[後漢書][魏志倭人伝][魏略]によれば確かに存在した国で詳しくは邪馬台国の動画をご覧いただきたいのですが、

隋から日本列島の正統な支配者とみなされていたのは「阿毎」と名乗る王朝で、[隋書]倭国伝の開皇20年には《姓は阿毎字は多利思比弧(たりしひこ)阿輩雞弥(おほきみ)と号す》とあり、歴史学者によっては「阿毎」に「天」の漢字を当て、「天の王朝」と呼ばれています。


さらに新井白石の[古史通或問]で展開した天=海同義論から「天の王朝」は「海の王朝」とも呼ばれるようになります。


天又は海の王朝は古代海人国家の邪馬台国にも繋がる王朝ですが、[古事記][日本書紀]では3世紀の邪馬台国の歴史は消され、隋代まで対外的に日本列島を代表していた「阿毎」を名乗る王朝の歴史も消し去っているため、一部の歴史学者からは記紀は偽書だといわれています。


以前の海洋民族の動画では結縄文字がアヒルクサ文字やタネコクサ文字、阿波文字などと関連がある、というお話をしましたが、この結縄文字はチャンパ王国や吐蕃国(とばん)でも使用されていたことからチャム人と邪馬台国には関係があるのではないか、とも考えられます。


アヒルクサ文字の一種と思われるモノノベ文字を物部守屋と大中臣牟知麿が秘蔵していた、ということも重要です。


[旧事紀]の天神本紀には《宇摩志麻治命が天からもたらした瑞宝をもって主上の魂を鎮め 糸を一から十まで数え結んだ》とあり、結縄は饒速日一族の文化でした。


魂を鎮めるために一から十数えるというのは[ウエツフミ]にもニギハヤヒ系統の秘法として記されています。


[旧事紀]に登場するニギハヤヒを始祖とした天津麻羅という船団はマラ族であり、中国側の史料ではマラ族は古代インドコーサラ国のシャーキヤ族と同一民族と認識されていました。


コーサラ国はマガダ国との一連の戦争により弱体化し、紀元前4世紀には最終的にマガダ国に併合されています。



アンガ国について「フィネガン古代文化の光」で調べると、ユダヤ人の祖先であるアピル人やヤーダヴァという人々に行き着きます。


[阿比留とアピル]
紀元前19世紀頃のラルサ王国リム・シン1世の時代には「ハビル」と呼ばれる人々がいたことがヌズの書板やテル・エル・アマルナ書板などからわかります。

「ハビル」の名称は楔形文字で「ハピリ」と刻まれていますが、エジプトの文書に見られる「アピル」と同一とされています。

発音上「ハビル」という言葉は実質的に「ヒブル」(ヘブライ)と同じであり、この2つの集団に何らかの関係があったことは明らかだと言われています。

ラス・シャムラ出土の楔形文字テキストなどから、ハビルやアピルの語源は「通り過ぎる」や「横切る」が語源とされていて、ヘブルはヘブライ語では「イブリー」とも言い、旧約聖書の創世記(14.・13)では「イブリーのアブラム」として登場しています。

この訳もまた「通過者」や「向こう側からの人」とされています。


次にインドの古代史を調べていくと「印度民俗誌」によれば、アヒール族という民族がインダス川下流の南側にいて、彼らは牛飼いや搾乳のカーストを有していて、アヒールの名称はヒンドゥー聖典に登場するアブヒーラのことだとあります。

またダシウという海賊と記されていますが、テル・エル・アマルナ書ではアピル人もまた盗賊であったと記されています。

歴史学者ロミラ・ターパル氏の「インド史」によれば、紀元前1000年頃に現在のグジャラート州と、アヒール族がいたシンド州の南隣の地にはヤーダヴァという人々がいてその南側にアンダカという地がありました。

鹿島曻氏の[史記解]によればこのヤーダヴァとアンダカの両族の連合勢力がガンジス川下流に位置したチャンパーに移動してアンガ国を建てたとあります。

つまりチャンパ王国を建てたとされるチャム人の実態はアンガ国にいたアヒール族又はアピル人やヤーダヴァ人などで、後世彼らは朝鮮半島南部や九州にも上陸し、金官加羅の王家として日本の古史古伝に登場しています。


扶南国や中国史料での林邑国(チャンパ王国)はどちらも古代インドの影響を強く受けていたことがわかりました。


以前の動画で金官加羅(新羅) の朴氏は倭人の瓠公と同族であり瓠公はナガ族、カーシ族などに関連がある民族ではないか、と言うお話をしましたが、インド十六王朝の歴史を調べるとカーシーはマガダ国に併合され、カーシを併合したマガダ国はアンガ国を滅ぼしたので、アンガ国の植民地であったチャンパ王国にもマガダ国の勢力が及んでいます。


朝鮮半島の史書ではアンガを安羅と記し、[桓檀古記]では日向の安羅国を本国として現在の韓国、咸安にあった安羅国は日向の分離した領土であった、とあります。


そしてこれらの歴史は、アヒル文字を代々秘蔵していた対馬国阿比留氏や、筑紫の安曇氏の歴史にも繋がります。




今回は東南アジアの歴史から日本の古代氏族についてみていきました。

東南アジア諸国の歴史を調べていくと古代インド史に繋がり、インド洋の海洋民族が貿易基地として建国していたのが扶南国や林邑国であったことを[梁書]や[太平御覧]などの書物から見ていきました。


古代史の水軍というのは元々は海賊であり、貿易の商船隊でもあり、戦時には海軍にもなるということは近世までの世界史で明らかとなっています。

倭人のルーツとひとつであるチャンパ王国は国王自らが海賊であり、古代では貿易と海賊が同義語であったという学説もあります。

倭人の水軍は白村江の戦いによってほぼ壊滅してしまいますが、[日本書紀]を見ると、この戦いで倭国が派遣した水軍のトップは阿曇比羅夫という人物です。
彼は古代有力な海上部族が率いる阿曇水軍の族長で、邪馬台国連合国家の主力の水軍を率いていた海洋民族の古代氏族です。


倭人は日本列島固有のものではなく、[海内西経]によれば《南倭と北倭は燕に属す》とあり、倭人の中にも北と南の系統に分かれていたことがわかります。

今回お話ししたマレー半島の流れを汲む倭人は南倭に属しています。



古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。
最後までご覧いただきありがとうございました😊❣️


📖参考書籍📖
鹿島曻著書「史記解」「桓檀古記」「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
大林太良編集「民族の世界史6東南アジアの民族と歴史」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」「日本古代史の展開」
宮崎康平著書「まぼろしの邪馬台国」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
三森定男著書「印度未開民族 」
石井米雄著書「世界の歴史14インドシナ文明の世界」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」

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