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希望と搾取の曖昧さ 〜映画『ナディアの誓い ー On Her Shoulders』 review②〜

ノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラドを追ったドキュメンタリー映画『ナディアの誓い ー On Her Shoulders』が2019年2月1日よりアップリンク吉祥寺ほかで公開になる。配給元・ユナイテッドピープルに以前勤めていた縁で、一足早く試写で鑑賞してきた。

想像していた以上にいろんな切り口から感じることが多かったため、noteで3回に分けて書きたいと思う。(*ただし、ネタバレな内容も含まれると思うので、事前情報を得たくない人は、鑑賞後にお読みください。)

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「あなたが今発言しなくてどうするの!」

数年前、パリで同時多発テロが起きた際に、仕事関係の方からそんなお叱りの言葉をいただいた。

シリアに関わる発信を(私とシリアの関係については①もご参照ください)、シリア映画の配給に伴い、いくつかのメディアでさせてもらったり、自分のSNSで書くようになって、しばらくした頃だった。

その方からすると、私はシリアに関わる「活動家」であり、私の考えや意見に多少なりとも期待をしてくださっていたようだった。

でもその時は、まだ事件の全貌が見えていないなかで、メディアはとにかく大騒ぎ…。そんな渦中に飛び込んでしまったら、何か大事なものが見えなくなってしまいそうで、私としては静観していたい時期だった。だから敢えて言葉を発することをしなかった。

同時に、私は自分で「活動家」を名乗ったこともなければ、「活動家」になりたいと思ったこともない。

ただ、たまたまシリアに滞在し、そこで温かな時間を過ごして大好きになったのに、悲しい出来事に飲み込まれてしまったから...。大切な友人たちが置かれた悲惨な状況を、「自分には関係ない」と言いたくなかったから...。ただ彼ら彼女たちと、また一緒に笑顔で過ごしたいと願っているだけ。そして、声をあげられない友人たちの代わりに、あるいは、彼らからは届けられない人たちのもとへ、私ができる声を届けたいと思っただけのこと…。

そう思って声をあげはじめたら、私は社会では「活動家」と見られ、「活動家」として声をあげる”義務”を負うようになっていた。頂戴したお叱りの言葉に、自分が想像もしていなかった"現実"の重さを感じて、当時涙が止まらなかった。

映画『ナディアの誓い ー On Her Shoulders』を見ていて、その時のことを思い出した。

(c)RYOT Films

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ナディアは映画の中で何度も「活動家」とされることに小さな抵抗を示している。そして何度も、ただの「村娘」に戻ることを望む言葉も口にする。

彼女は自分から「活動家」になったわけでもなければ、今も「活動家」という肩書きの実感を自分自身ではもっていないのではないかと思う。

あくまでも、同胞たちの絶えることのない”声なき叫び”を届け続けているだけ。家族も同胞もまだ苦境にいるなかで、"普通の生活"を送ることを自分に許せないだけ。次から次に降ってくる、そしてどんどん大きくなっていく、周囲の期待から逃れる道がないだけ…。

(c)RYOT Films

ナディアの周りの人たちはよく、「ナディアは希望だ」という言葉を口にする。国連や各国議会の議員も、難民キャンプにいるヤジディ教徒の同胞たちも。でもこの「希望」という言葉を聞くたびに、私はモヤモヤした。

確かに彼女が今一番、発信力や発言の場をもっていることは確か。でも「希望」という言葉をナディアに投げかけるごとに、「自分たちにはできなくても、彼女がやってくれる」と、すべての責務を彼女に押し付けてはいないだろうか。彼女に甘えてはいないだろうか。それはともすると、彼女の使命感を利用した「搾取」にならないだろうか。

人は誰しも自分の「声」をもっているはず。そして、何かを生み出し、変化させる力もあるはず。それが集まり束になった時、きっと本当の「希望」になる。誰か"動いてくれる人"を祀りあげて、自分自身の声や力を放棄してしまったら、そこに重なっていくのは、悲しみと疲弊と絶望なのではないだろうか。

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