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6時間の恋人【後編】

車は少し古そうな型のステーションワゴン。だと思う。私は車にはとても疎い。違ってたらごめん。少し意外だった。なんとなくもっていた彼のイメージと違ったから。じゃあどんな車だったら納得するのかと聞かれても答えられないけれど。数時間しか一緒にすごしていない私のイメージなんてあってないようなものだ。

助手席に乗せてもらってシートにもたれる。ゆっくり座ったのは何時間ぶりだろう。休憩を忘れるほどはしゃいでいたことに我ながら驚く。買ったばかりのCDをかけ、戦利品のじゃがりこをつまみながら歌詞カードを追う。仔犬くんが覗き込んできて、この歌詞はあのことかな、きっとこれと関係してますよね、と話しかけてくる。身近に同じバンドのファンがいなかったから、こうやって話せることがとても新鮮。


一周聴き終えてもまだ時間があったのでもう一回聴こうとすると、
「俺はもう何回か聴いたから」
と言って仔犬くんは運転席のシートを倒して目をつぶった。
歌詞カードをしまって曲だけ聴く。


「寝てました?」
気付くとからかうような表情で仔犬くんが見ていた。寝てないっと思わず反論する。さすがに寝るのは憚られると思って自分のなかでは起きているはずだった。目を閉じているつもりもなかったのに。目を開けたまま寝てるのも怖いけど。

いや寝てましたよ、と少し意地悪に笑う仔犬くん。初めて見たその表情が急に憎らしく思えて、寝てないってば!とムキになってしまった。無防備な姿を晒したのかと思うと猛烈に恥ずかしかった。仔犬くんにはきっと、馬鹿にするつもりはなかったのに。可愛こぶるわけじゃないけど、自分のこういうところが可愛げなくて本当に嫌になる。

ふーん、とちょっとつまらなそうに呟き、
「そろそろ行きましょうか」
と言った仔犬くんは少し素っ気なかった。ただの八つ当たりだ、ごめん。良くしてくれたのに。


17時すぎ
車から離れたが、謝るタイミングを逃した。下を向いたら小さなため息が落ちた。あぁ、自己嫌悪。
一歩前を歩く仔犬くんの靴が目に入る。革靴のままだ。会った時からライブに革靴?って思ってたけど、車で来てるならスニーカーとかに履き替えるんだとばかり思っていた。そのままいくんだ。ライブTシャツを着てるのに革靴。やっぱりよくわからない。とりあえず、蒸れるぞ。

ライブ会場には独特の熱気がある。その場を埋め尽くす声のような音。集まったひとりひとりから、これから訪れる瞬間に対する期待感が滲み出ている。早く会いたい、聴きたい。口に出しても出さなくてもみんな同じ。強烈な片想いのように焦がれる想いは心のうちに留まらず、周囲の空気を惑わせる。アドレナリンの出過ぎだろう、瞳は爛々と輝き、まるで獲物を探す肉食獣のよう。ってそれはさすがに言い過ぎか。

会場前に着くといつもの空気に包まれた。そこにいるだけで鼓動が速くなるような高揚感。まだ開演まで時間があるとわかっているのに、勝手に湧き上がってくる興奮を抑えるのに苦労する。いいからちょっと落ち着きなさい。

そう感じていたのは私だけではなかったみたいだ。
「なんかすごいっすね」
思わずこぼれたような呟きに隣を見ると、仔犬くんの瞳がきらきらしている。さっきまでの気まずさはこの熱気が呑みこんでくれた。良かった。うん、と力強く頷く。もうすぐだ。雲の切れ間から夕焼けが覗いている。

周りを見渡すと、少し疲れた顔の人がちらほらいる。さすがに6時間以上待つのは辛かったのかも。仔犬くんに声をかけられなければ、私も同じような顔でここに来たんだろうな。植え込みの端に座り込んでいたかもしれない。彼のおかげで私の6時間は素晴らしいものになった。あの時、仔犬くんと会った時にはこうなるなんて思いもしなかったな。ありがとう。あと、ちょっとごめん。当たりクジを買い叩きにきたのかと疑ったよ。


入場順はクジに記されたアルファベットと数字で決まる。AとBだったらAの方が先に、数字は若い順に入ることになっている。仔犬くんはAの後半で私はBの中盤。ロッカーに本が入ったバッグを預けるとスタッフさんが入場について説明し始めた。

どのあたりで観るのか聞くと、仔犬くんは最前列に行くという。私も普段はそうするからよくわかる。上げた腕が下げられないほどぎゅうぎゅうに詰まった人たちと押し合いながら、曲に合わせて跳ねる。そういう楽しみ方が好き。痛いけど。汗だくになるけど。
今はもう出来ないので、私は後方にある手すり付近を狙っていた。寄りかかって観られれば楽ちんだ。

会場内で別々になることがわかったのでここでお別れだった。私たちは今日初めて会った他人。友達でも恋人でもない。本当の名前すら知らない。6時間、ただライブまで一緒に時間をつぶしただけ。それなのにちょっとデートみたいだな、なんて思ってしまった。思っただけだよ。あまりに楽しかったからさ。


そろそろ仔犬くんが入る。ライブ後は人が多すぎて会うこともないだろう。だから最後に伝えておこうと思った。
今日はありがとう、楽しかったと。
本音だった。心から楽しかった。
仔犬くんは少し驚いたみたいだったけど、
「俺もたのしかったですよ」
と言ってくれた。
入り口前の人だかりに向かう仔犬くんに手を振って見送った。ちょっと寂しいな。でもこれからが本番だ。気合いを入れ直し、入り口のボードと手元の番号を何度も見比べる。

会場に入ると狙っていた手すりのところに真っ直ぐに向かった。配置を知っているから迷うことはない。運良く手すりの真ん中が空いていて、その場所に滑り込んだ。思った通りステージの真ん中が良く見える。あとはひたすら待つのみ。


ライブハウスってスモークも焚いてないのに霞んで見えるのはなんでだろう。最初に来た時から気になってるけど、未だ答えを知らない。空調は効いているけど人の熱気までは消せていない。

超過密地帯となるステージ前のフロアにはどんどん人が増えていく。仔犬くんはあそこにいるんだろうな。薄暗い照明と多すぎる人で顔は全くわからない。

せっかく当たったんだ、とにかく思いっきり楽しもう。鼓動が速く、強くなっていく。周囲の熱気も増していくようだ。早く始まって欲しい気持ちと、始まったら終わりがきちゃうという気持ちが戦っている。複雑。


ライブは、控えめに言って最高だった。控えめに言ったのは、最高を何百回言っても足りないこの感情をなんていえばいいのか知らないから。誰か教えてほしい。

メンバーが姿を見せると会場は歓声と咆哮に包まれた。かき鳴らされたのはライブのテッパン曲。黒い波が揺れ、リズム隊の低音が突っ込んできて体の芯に響く。ギターとピアノの音を全身に浴びながら聴く唯一無二の歌声に心が痺れる。次々に繰り出される曲たち。ファンを踊り狂わすつもりとしか思えない選曲は溜め込まれた期待値に引火して大爆発を起こす。狂喜乱舞という言葉はこの瞬間の為にある、と私は思う。

気持ちは踊り狂っているがジャンプ厳禁の妊婦。跳ねたい気持ちをぐっと堪える。上げっぱなしの腕は筋肉痛になるだろう。ちょっと声もかれてる。でもいいんだ。最高より上の表現って感無量かな。急にそんなことを思う。きっとそうだ。だってもう、この気持ちを言葉にできないもの。書いて伝えたいのに言葉にできなくちゃダメなんだけど。


時間としては1時間半くらい。いつものライブよりは少し早くおしまいになった。嬉しいと楽しいと大好きがみっちり詰まっためちゃくちゃに濃い時間。これ以上なく素晴らしいライブ納め。もう悔いはない。

終わっちゃった。
喜びとか感動とかポジティブな感情を全て出し切って、軽く放心状態。両腕が重い。首筋にうっすらかいた汗に髪がはりつく。


ゆっくり外に出ると夜風が汗を飛ばしてくれる。この瞬間が結構好きだ。すっかり暗くなった空を見上げて新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。雲がないけど星もない。東京だから見えないのかな。一息吐いて呼吸を整える。
さあ、帰ろう。


興奮冷めやらぬ人の群れを避けてロッカーへ向かう。荷物を出して振り返ったら、今日だけでずいぶんと見慣れた顔がそこにあった。
「おつかれさまです!」
汗ばんで少し赤くなった顔で笑う仔犬くん。髪がちょっと乱れている。最前線にいたらそうなるよね。偶然かな。それとも待っててくれたのかな。終わったあとの約束はしていない。もうバイバイしたと思っていたのに。

ライブには一人でいく。開場までどこで何をしても自由なのが好き。終わったら余韻を噛みしめながら帰る。でもこの時、最高に熱くなった想いをすぐに語り合えたとき、こういうのもいいなって初めて思えた。直前の熱気を抱えたまま笑い合う。めちゃくちゃ良かったねって。6時間待った甲斐があったねって。

「俺これとったんですよ」
仔犬くんが握っていたものを自慢げに見せてくれた。木で作られた小さなリンゴ。うそ、すごい!思わず大きな声が出た。メンバーがライブ中に投げたのは見えた。取れたなんてすごく羨ましい。そうそう、生のリンゴも投げてた。そういえば以前は餅だったこともあったな。どっちも当たったら痛いね。

興奮が少し落ち着いた頃、仔犬くんから夕食に誘われた。私はゆっくりと首を振る。もう20時近い。これから電車を乗り継ぐことを考えると、もう帰らなければ。
どうしてもダメですか?と食い下がってきたけど、そろそろ現実が頭にちらつく。明日は仕事だし、体も休めなきゃ。

ごめんね、と言うとしょんぼりしながらも納得してくれたみたい。じゃあ駅まで送ります、と言ってくれた。改札まで200メートルもないけど。ありがたく送ってもらうことにする。

改札前で少しだけ立ち話をして、今度こそお別れ。もう一度お礼を言おう。ライブ前よりももっと大きなありがとうを伝えたい。こんなに充実した1日になったのは、全部全部キミのおかげだから。

ありがとうじゃ全然足りないって思ったら、自然に右手が出た。握手を求めるなんて漫画みたい。自分史上初の出来事だけど、きっとこれは正解だと思う。
ありがとう、と言うと仔犬くんも手を出してきた。思ったよりも大きくて厚い手には、まだライブの熱が残っている。
「俺もめちゃくちゃ楽しかったっす」
やっぱり仔犬くんは、最後まで仔犬のように笑う。無邪気に見えるその笑顔に会うのは、これが最後だ。


見送られつつくぐる改札。階段を登る前に振り返ったら、まだ同じ場所に仔犬くんがいた。大きく手を振って前を向く。そこからの一歩は、今までの夢のような時間から戻るべき現実に向かって踏み出したような気がした。

ライブハウスは私にとっての夢の国。あの小さなハコの中に私が欲しいワクワクとドキドキが全部詰まっている。大好きなアーティストの姿が見られて、歌が聴けて。曲に合わせて踊って、オチのないMCに笑える最高のエンターテインメント。ネズミのキャラクターはいないけど、たまにウサギに会えたらラッキーだ。

電車に揺られながら今日を振り返る。本当に奇跡みたいな一日だった。私が引いたあの当たりクジには、何か魔法がかかっていたのかもしれない。楽しくて嬉しい魔法。会場から離れるにつれてだんだんと魔法が解けていく。

仔犬くんと会うことは二度とない。家に帰れば妻に戻り、明日にはいつものように出勤する。後ろから現実が音をたてて近付いてくる。

でも。

もう少しだけ。

せめて電車を降りるまでは許してほしい。

たくさんの偶然を集めて神様がつくってくれた一日。
この忘れられない思い出と、まだ鳴り止まない音楽に浸ることを。


これは、嘘みたいな本当の話かもしれない。

あるいは、広いスタバで持ってきた本を読み終えて時間を持て余した30代妊婦が、デカフェのコーヒーをおかわりしてシナモンロールをかじりながら考えたただの妄想、かもしれない。





自分に頂けた評価で読みたい本が買えたら。それはとても幸せだと思うのです。