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日本人離れしたユニークな絵を描く洋画家・大内青坡

大内青坡(1896〜1974)という洋画家がいます。「おおうち・せいは」と読みます。この画家は経歴の詳細が良く分からなく、グーグル検索しても殆ど情報が得られないのですが、戦前のマイナーな洋画家に詳しい「いのは画廊」(東京・神保町)の公式サイトによると以下のプロフィールが書かれています。

仏教学者・思想家である大内青巒(おおうち せいらん)の息子として東京に生まれる。弟は彫刻家の大内青圃、息子は画家でエッセイストの大内青琥。ギリシャ、古代インドの神話世界を多く描いた。36歳で制作をやめる。作品が希少な画家。

これ以外でグーグル検索して得られる情報は1930年に大乗美術会の結成に、1935年に新興美術家協会の結成に参加したことぐらいでしょうか。あと、戦後、太平洋画会(太平洋美術会)の会員でもあったようです。

2022年2月、ヤフオクで大内青坡の油彩6号(1950年)が16万6100円(税込)で落札されました。

また、同じ頃、ヤフオクで大内青坡の油彩10号(1963年)が14万9360円(税込)で落札されました。

私はこれらの作品を見て日本人離れしたユニークな画家だと思い、それ以来、大内青坡について調べているのですが、『藝術新潮』1980年2月号に「秘められた大内青坡の遺作」(p.56)という記事が載っているので引用致します。

 生前、作品を一度も発表することなく、死後はじめて遺作展が開かれる画家といえば、なにかしら作り話のように聞えるが、大内青坡の遺作展は、稀有なその一例であった。一八九六年、宗教家大内青巒の三男として生まれ、十六歳で藤島武二に学び、芸大の前身である東京美術学校西洋画科に入学し、卆業後は同志と共に数々の美術団体を創立するなど、活潑な画歴をもちながら、一九三四年、三十八歳にして突然、一切の作品の公表をやめてしまい、しかも戦災で全作品を焼失する。そして七四年、七十八歳で死ぬ。集められた油彩八十点、素描三十点は、いずれも戦後の制作ということになるが、初期ルネサンスやラファエロ前派に傾倒したといわれるように、印象派以後の近代絵画の影響が圧倒的だった同時代の作家たちとは格段に異る芸術思想がみてとれる。描かれているのはほとんど裸婦だが、そこには一貫した宗教性がみられる。しかも、「アダムとイヴ」、「ヴィーナスの誕生」、「慈母観音」、「二河白道」といったぐあいに、あらゆる宗教にわたっている。これらの裸像たちは、胸に力点がおかれていて、つまり個別の宗教を超えた、大いなる母性の信仰の証であろう。
 (12・17〜28、1・10〜23 銀座アートホール)

この記事は1979年12月17日から1980年2月7日まで銀座アートホールにて開催された「大内青坡遺作展」のレビューですが、この遺作展に伴って大内兆編『大内青坡遺作展出品目録』(美術出版デザインセンター、1979年12月)が制作されています。編者の大内兆は大内青坡の息子で画家・エッセイストの大内青琥(1939〜2005)の本名です。この目録の詳細なデータが東京都現代美術館の蔵書検索(OPAC)に載っていますのでリンクを貼ります。

私はこの目録は未見なのですが、近日中に東京都現代美術館に行って閲覧する予定です。

補足ですが、2022年2月にヤフオクで『大内青坡遺作展出品目録』が6550円で落札されました。当時、私はこれを入手できませんでしたが、オークションのページがまだ残っているのでリンクを貼ります。

今の時点で私が得られている大内青坡の情報は以上です。

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