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【短編小説】徒労の人 ~なぜ書くのか~ 第2話

   第2話

「あのぉ……愛馬センパイ、ちょっといいですか?」

 定時まであと五分を切ったところ。開いたパソコン画面は単なるカモフラージュで、明日提出することになっているデータはもう保存済み。心の中ではカウントダウンの準備が始まっている。

 時計が定時を知らせれば、ゲートを開けられた競走馬のようにロッカーに向かい、真っ直ぐに家に帰るだけだ。

 それなのに、このタイミングで後輩から声をかけられるとは、嫌な予感しかしない。ましてこの後輩は、ハッキリ言って仕事ができない。

「このお客さまの登録番号が、こっちのデータと合わないんですよぉ」
 リナは上目遣いでそう言い、グーにした両手を目の下で震わせ、泣き真似のポーズをした。

「昨日の新規のお客さまでしょ」
 営業からデータをもらい、顧客情報を入力する。それだけのはずなのに、なにを間違えたというのか。

 リナはわたしよりも七期後輩で、半年前にこの課に配属されてきた。新人でもないのに、いつまでたっても仕事ができるようにならない。縁故採用だというまことしやかな噂も流れている。

 それまで一緒に勤務していたのはわたしよりも十四歳年上のベテラン女史、高井戸で、後輩いじめで有名だった。

 かくいうわたしもさんざんな目に遭い、そのたびに抱いた理不尽さを、

(自分は決して後輩をいじめない優しい先輩になってやるぅぅ!)

 という誓いにすり替えることで耐えてきた。

 そんなベテラン女性社員、高井戸が親の介護のために仕事を辞め、代わりに配属されてきたのがリナだ。

 彼女は、

「優しい先輩になる」

 という誓いをあっさりと破らせそうになるほどわたしを苛立たせ、高井戸に戻ってきて欲しいとさえ思わせるつわものだ。あの女史がもしここにいたとして、リナがどれほど絞られるかという想像が、溜飲を下げてくれる。彼女が今もここにいるなら、リナがこの課に配属されることがなかったわけだが。

「データを入れる時には、ちゃんと確認しようね」
 ため息を抑え、辛抱強くそう言った。時計をちらりと見る。あと三分。

「明日でいいから、営業部に行って、もう一度顧客データを借りてきて、やり直して」

 単なるデータの入力ミスならともかく、登録番号が合わないとなると面倒だ。下手をすると番号そのものを一つ消さなければならないことになり、のちのちの混乱の元になる。

 登録番号が不自然に一つ飛ばされ、それに気づいた社員から「なんでこれ一つ飛んでるの?」と聞かれるたびに返答に困る。それを想像しただけで面倒な気持ちになり、心配顔の後輩をフォローする気が失せた。

「でもぉ、さっき課長が、愛馬さんに教えてもらって今日中に直しなさいって……」
「は?」

 リナがびくっと肩を震わせた。怖い顔をしている自分に気づき、慌てて眉間のしわを指で伸ばす。

 若作りの課長は、リナが大好きだ。課長だけではない。この課の男どもはみんなリナの前でデレデレしている。

 是非もない。彼らにとって重要なことはリナの仕事ぶりではなく、若くて可愛くて愛想のよい女子社員がフロアの花として存在することだ。彼女によって生じる迷惑を背負わされているのはわたしだけなのだから。

「なんで」
 言いかけてやめた。リナには早く帰りたいという考えはない。やることがなくてもだらだらと会社にい続け、他の男性社員たちと楽しそうに話している。呑みに誘われることを期待しているのだろう。

 登録番号のミスも、自分に甘いと知った上で課長に報告したのだ。わたしに押しつけた当の本人は離席している。煙草でも吸いに行っているに違いない。

 明日気づいたことにしてくれたらよかったのに。仕方なく、リナの手から書類を取り上げた。急いでパソコンの顧客データを開き、確認する。

「営業部に行ってもう一度昨日のデータをもらってきて」
 画面から目を離さないまま言うと、リナは

「はぁい」
 と嬉しそうに答え、フロアを出ていった。

「……ああ、しまった……」
 リナにおつかいを頼んでしまった。営業部には若い男性社員が多い。なかなか戻ってこないだろう。

 時計が定時を知らせる。くそぉ。今日は早く帰って、『コスプレ女子高生探偵お七』の続きを書きたかったのに。

 デスクの陰に隠れてスマホの画面にタッチする。『愛馬あけび』のクリエイター画面を開くと、昨夜投稿したクライマックスシーンに「スキ」の数がいくつもついていた。コメント欄を確認し、もどかしい気持ちで画面を閉じた。


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