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【短編小説】徒労の人 ~なぜ書くのか~ 第8話

   第8話

 がくんと身体が揺れ、テーブルについていた両肘が横に滑った。パソコンに頭を突っ込みそうになり、その反射で今度は背中の筋がばねのように縮む。

 押し出された空気が声帯を震わせた。悲鳴ともつかない、おかしな音が口から洩れ、それが声が耳から入ってきたことで、しびれたようになっていた肉体に感覚が戻った。ここはどこ? わたしは誰?

 たった今見たものは、ただの夢なのか。妙に鮮明で、生々しい感覚が身体に残っている。

 小さな貸本屋の薄暗さ、古い本のかびの匂い、手にした矢立の感触、足に食い込む下駄の鼻緒、指をぶつけた店先の天水桶。
 あれは実際に起こったこと? わたしは本当にあそこにいたの?

 ぶるぶるっと身体に震えが走る。

 これはとんでもなく大きな流れだ。わたしが生まれるよりずっとずっと前から、わたしが死んだ後もずっとずっと変わらず。人が死んでも、街が消えても、国が滅んでも、残酷なほどすべてを押し流していく。

 小さい頃、熱を出して学校を休んだ。布団に横になって天井を見ていたら、世界がどんどん大きくなっていった、あの感覚を思い出す。

 天井が遠ざかり、すぐ隣にあるタンスが伸びていく。取り残されたわたしはまるでエレベーターに乗せられているように、反対の方向へ沈んでいく。

 世界が膨張しているのか、それとも自分が小さな小さな豆粒のようになっているのか。びっしょりと汗をかきながら、涙でぼやけた目を、それでも閉じられなかった。怖くて。

 ふいにやってくるあの感覚。大人になるにつれて回数が減り、今ではもうないけれど、あれに名前はあるのだろうか。

 とてつもなく大きなものの前で、人は震えあがるしかない。

 数えきれないほどの人や動物、植物、それらの生命が、生まれては消えていく、視界におさまらないほどの巨大な時間の流れ。誰が決めたのか、ちっぽけなわたしはその中にいる。命を与えられ、文字を紡ぐことを選んだ。

 背筋を伸ばした。パソコンの画面を見つめながら、キーボードの上で一心に両手の指を躍らせる。

 書きたい。

 今よりももっと、深いところへ潜りたい。

 息の続く限り深く潜って、限界を肥えたところで引き返す時に、指先に触れたなにか。

 あれを掴み取りたい。

 なぜ苦しいと思ったのだろう。こんなにも与えられているのに。小さな貸本屋の片隅で、書き損じの紙に物語を書いていたあの時さえも。

 涙が浮かんだ。どこの誰だか存じませんが、ありがとうございます。わたしにこれらを与えてくれて。
 ティッシュを取りに行く手間が惜しくて、服の袖で涙と鼻水を拭った。思い切り鼻をすすり上げる。

 息を止めていられる時間は、訓練すれば少しずつ長くなる。今よりももっと、深いところまで潜れるようになる。
 でも時間は待ってくれない。生きているうちに、最後までたどり着けないかもしれない。

 それでもいい。

 この焦りも、もどかしさも、苦しささえも愛おしい。

 息を止めて潜るあの場所はきっと黄泉だ。だから怖い。あんまり深く潜りすぎると、戻ってこられないような気がして。

 怯えながら、苦しみながら、戻ってこられない不安を抱えながら、何度でも黄泉へ潜りに行く。やがてそのうちに、本当に向こう側に旅立たなければならない時がやってくる。

 その時は愛しさを込めて、このいとなみを『徒労』だったと言おう。

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