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【短編小説】ニシヘヒガシヘ~夜行バスに乗って~第3話

   第3話

24:00 バスの中

 バスの中は薄暗い。若い子たちの話し声はちっとも聞こえてこなかった。眠っているのかとそっと後ろを見ると、みんなスマホを片手になにかしていた。友達同士の旅行のはずなのに、それぞれが自分のスマホとにらめっこ。その顔を、液晶画面が発する、色のついた光が照らしている。なんだか奇妙な光景。まあ、うるさいよりはいいんだけれど。

 ブブッ。リュックサックのポケットでスマホが震えた。取り出して画面を開く。

『お母さん、今どこ? お父さんから連絡があって心配してます』

 長女だった。夫の顔を思い浮かべる。あいつめ、長女にチクったな。
 夫の画面を開いた。

『今どこにいるの』

 最初の受信は、バスが発車する直前だった。その前に、何度か電話の着信もあった。
 着信、着信、メッセージ、着信、着信、メッセージ。

『どうしたの。今どこ。電話に出て』

 既読だけはつけておいた。そうすれば、無事だということはわかるはずだから。
 画面を閉じようとしたところで、夫から新しいメッセージが届く。

『連絡がつかないと警察に通報しなければなりません』

 なんだそのわざとらしい敬語。ムカついてんのか。こっちだよ、ムカついてんのは。
 警察に通報だぁ? 世間体を気にするあんたが、そんなことするはずないでしょうが。

 ブブッ。今度は長女からのメッセージだった。開いてみると、

『お母さん、お願い。無事なら無事ってだけ教えてよ。お父さんには言わないからさ』

 さすが長女。わかってる。
 ちょっと泣けそう。鼻の奥がツンとなる。

 メッセージを入力しかけて、やっぱり消した。『はーい』って猫のキャラクターが手を挙げているスタンプをひとつ送る。

『了解。ありがとう。気をつけて。なにかあったら言ってね』

 長女のメッセージに、右手の人差し指の関節で、目頭をちょんと抑えた。涙がこぼれるほどじゃない。

 一年前、社会人の長女が家を出た。大学生の長男は育ち過ぎるほど育っていて、もう母としてのあたしの役割は終わり。
 後は夫とゆっくり、二人であちこち旅行したり、呑み歩くのもいい。そのはずだった。

『母さんのこと、うちに引き取りたいんだ』

 半年前、突然夫が言った。田舎に住む義母はここ最近すっかり年老いて、歩くのもヨタヨタ、耳も遠くなり、言動も怪しくなってきた。そのためここ数年、帰省する頻度を増やしていた。

 車で往復三時間。けれど、それほど苦には思わなかった。月に二度の夫とのドライブだと思ったらいい。埃の溜まった義母の家の掃除を手伝い、ほんの少し食事の作り置きをして帰るだけ。義母は一通りの家事はできるし、買い物にだって行ける。耳は遠いが、電話なら聞こえやすいようで、話も通じる。
 だから、これまで同居について真剣に考えたことはなかった。

『こないだ、顔面から転んで擦りむいただろう。電話しても出ないこと多いから、なにかあったのかなって、離れてると心配なんだよ』

 ヨタヨタ歩いていて、段差に躓いたらしい。けれども、骨折も捻挫もしなかった。電話に出ないのは、耳が遠くて着信音が聞こえないことや、出たつもりでボタンを長押しして、電源ごと落としてしまっていることが原因で、そのたびに「携帯が壊れた」と勘違いしてショップに駆けこむのがお約束になっていた。固定電話は、義父が亡くなってしばらくして解約してしまっていた。

 確かに義母が田舎の一軒家に一人で住むことには不安があった。夫には弟がおり、うちよりも実家の近くに家を構えていたが、今は単身赴任で、定年まで戻れそうになかった。

「わかった」
 夫の頼みに、二つ返事で答えた。

「いいよ。同居しよう」
 これまで、家族の誰かが困った時にはどんなことでもあたしが力になってきた。夫がこれほど困り果ててあたしに助けを求めてるんだもん。引き受けないはずはない。

「ただし、条件がある」
 それでもちゃんと伝えた。あたしは義母に対して、いいお嫁さんにならない。頑張りすぎない。
 無理にでも意識しないと、ついつい頑張りすぎてしまうに決まっている。自分のことはよくわかってる。

「お義母さんに関しては、あたしは簡単なサポートしかしない」

 メインで動くのはあんた。あたしは、義母の世話役になってあげない。そこまでするつもりはない。

 二人の子どもを育てた時は、夫はちっとも役に立ってくれなくて、あたし一人で全部やった。
 でもあたし、義母に関してはそれはしないぞって心に決めたんだ。

 その理由は、自分のためじゃない。あたしが義母を世話することで疲弊したら、それをやらせたあんたのことを嫌いになっちゃうかもしれないから。

 あんた、あたしに本気で嫌われれたくないでしょう?

 だから、心を鬼にしてでも、義母のことは手を出さないって決めたんだ。

 夫はちゃんと約束を守った。この半年でずいぶんと変わった。

 義母を病院に連れて行くのも、デイサービスと契約するのも、ケアマネジャーさんと面談するのも、有給休暇を使いながら全部夫がやった。あたしは日々の食事の支度と掃除と洗濯、それだけ。

 むかーし、まだ長男が赤ん坊の時に、家族で出かけたことがあった。ランチを予定している場所で長男にミルクを飲ませたいから、そこから逆算して家を出る前に授乳して、洗濯もの干して、オムツやらミルクやら荷物を詰めて、同時進行でイヤイヤ期の長女を着替えさせる。あたしが一人でバタバタやってるのに、

「おーい、まだ行かないの?」
 あんた、一人で玄関で靴履いてたよね。

 それが今ではさ、義母を病院に連れて行く時には、
「母さん、ほら、介護保険証と、健康保険証と、診察券、ちゃんと入ってる?」
 そう言って確認してるの。驚いちゃうよね。

 こないだなんて、桜を見に行こうかって義母を車に乗せて三人で出かけた時は、水筒だの、ハンカチだの、挙句の果てには折り畳みの日傘まで用意してあげてた。
 まったく、あの頃のあんたに見せてやりたいよ。

 それでもさ、あんたが仕事から帰ってくるまでの間、義母が発生させる問題をあたしが引き受けることも色々とあるんだ。
 言いたかないけど、気づかずに粗相をした義母の下着を手洗いしたりしてるのよ。

 まあ、そんなの大したことじゃないし、頑張りすぎないって自分の中で決めた誓いをちゃんと守ってるつもりだったんだけど。
 やっぱりあたし、自分で思っていた以上に疲れてたのかな。

『母さん、かわいそうだな』

 あんたのあのひと言がこんなにも刺さるなんてね。

 画面を開いたけれど、夫から次のメッセージが届く気配がなかった。あたしはスマホをリュックサックのポケットに戻した。

 手にも提げられるような小さなリュックサックには、財布のほかに、替えの下着と靴下、長袖のTシャツ一枚、スマホの充電器と、オールインワンの美容液くらいしか入ってない。

 夫が風呂に入っている間に急いで荷造りして、家を出てきてしまった。駅前のカプセルホテルにでも泊まるつもりで。

 そうしたら、ロータリーにたまたまこの夜行バスが停まっていて、キャンセルが出たおかげで席がひとつだけ空いてるって、なにかの啓示のようで、思わず乗ってしまった。

 バスタ新宿。別に東京に行きたかったわけじゃない。でも、ここじゃないところに行けるならどこでもよかった。

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