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不登校とギフテッド

政府が「ギフテッド」の支援をする政策を発表した。
教育が難しく、不登校になってしまう子も多い。
ギフテッドについての関心が高まっている今、自身の経験を書こうと思う。 役に立つか立たないかは、今私が決めることでない。


私は中・高の6年間、不登校だった。

唯一通っていたと言える小学校時代も、1年生から休みが多く、もう義務教育が始まって既に予備軍だったのだと思う。

予備軍とは言っても数日休んで登校した日にテストがあり、そのテスト範囲丸ごと授業を受けていないなんてこともあったので、休みが多いのも不登校に含まれると言うのであれば約12 年間にわたる期間だ。

通常であれば学業に支障をきたしそうだが、小学校の頃は一度も授業を受けていない内容でも、95~100 点を取ったりしていた。

能力別に振り分けられることになった算数のクラス分けでは、特に勉強しているわけでもないのに、進学組で塾にも通っている子たちと同じ中学の数学の内容をやるAクラスに入れられたりしていた。

2年しか習わなかったピアノでも、合唱コンクールなどで3歳から習っている子と一緒に伴奏をしたり、他の分野でも賞状などを貰うことも多く、絵を書くのも得意だった。

特に習ってもいない習字の部門では何故か毎年特訓組に入れられ、県に作品を送られて金賞や銀賞を貰うのが冬の恒例行事になっていた。

休みは結構多いけど、それで学業に支障もないので、小学校時代はギリギリ問題ないセーフラインには入っていたのかもしれない。

中学生時代

中学では1年生の時は、半分~3分の1くらいの出席率で、2年生でほぼ行けなくなり、3年生のときには中間や期末試験のみも受けたのかすら記憶にない。

修学旅行だけは周囲から何とか行けといわれ、それはおそらく少しでも想い出を残させようとする周りの善意からくるものだったのだと思うけれど、本人的にはその当時死にそうな感じでふらふらしていたので、「参加するだけで精一杯」と言った状態で今思い出しても霧がかっているような曖昧な感覚しか残っていない。

それが周りにも伝わっていたのか、 優しい親分肌の女の子が夕飯に出たお肉を「もっと食え」とお皿に沢山入れてくれたのがやけに印象に残っている。

そう、私は中学2年に本格的な不登校児になってからどんどん痩せていった。


不眠症に加え、摂食障害に陥ったからだ。
自律神経も狂っていくし、ストレスからなのか何なのか離人症や解離性障害の症状も始まる。

夜になれば毎日のように得体のしれない、理由や原因のない怖さや不安にかられて毎晩のように泣いて過ごして朝を迎えた。
今から処刑台へ向かって殺されるときのようなかなり強いものだったので、不安障害でもあったのかもしれない。

栄養失調からか生理も止まる。
体調も精神状態も悪化の一途を辿っていく。
誰にも会いたくない。
もう死んでしまいたい。
絶望。

最初の頃は学校からも親からも行くように再三云われ、それでも行かないとなると強く責められたりしたのだが、中学 2 年頃から痩せ始めた私にいよいよまずい、あんまり言うとヤバいんじゃないかと思ったのか、その辺りから外野が静かになり始め、「問題のある不登校児」を「そっと見守る」という スタンスに変わっていた。

単純に諦めただけなのかもしれないけれど、よく言えばあたたかく見守る、悪く言えば腫れ物をさわるようになっていった。

個人的に一番辛かったのは中学時代なのだが、高校時代も数年前に親から「悲惨な高校時代だったもんね」と言われてしまう始末。
自分の青春時代を「悲惨」の一言できっぱりまとめられたことに対して一瞬内心は動揺したが、まぁ簡単に分かりやすく言うとそうなるのかもしれないと思い「そうだね」と返答した。

この落とし穴に落っこちたような状態は何だかんだ 20 歳くらいまで続いた。

「普通になりたい」

自分の中で一番辛かったのは、「普通に出来ない」ということだった。

これは不登校の経験から感じて、定着していったことだと思うけれど、今から 20 年前だからなのか、私の通っていた学校の体質なのか、不登校というものに理解がなかったので、かなり責められた記憶が残っている。

特に今でも記憶に残っているのは、中学生時代の「校長先生による親への呼び出し」と「担任の女性教師に放課後長時間説教された」ことである。

「校長による呼び出し」のときには、学校から帰ってきた親からの話で、詳しくは聞いていないものの、かなり否定的なことを言われたようだった。

お子さんは〇〇じゃないですかとか言った、否定的な決めつけを言われたようで、とても伝えられないような感じだったし、親も傷ついたことだろうと子供ながらに察し、詳しくは聞かず、そんなことを言われてしまう自分を申し訳なくも感じた。

そして「担任の女性教師による長時間説教」は中学時代の唯一少し通っていた1年生のときに、友達と帰ろうとしていた私をちょっと来なさいと私を教室に残し、小一時間だったか学校を休むということについて色々な角度で怒られ続けた。

もっとこうすれば出来るはずだ、とかこれがこうだからいけないんだとか、長々話されたことを簡潔に自分なりにまとめてしまうと「根性が足りない」といったような内容だった。

仮病の時もあったが(行きたくないと言っても休ませてくれなかったので)、精神面からくるのか、実際に熱が出たりすることもあり、病院にいくと血液の数値に異常があったり、扁桃腺の肥大化なども指摘されることもあった。

そのことが親から伝わっていたのか、「それが原因なら扁桃腺なんてさっさと切ってしまえばいい」 と言った趣旨のことも言われた。

お説教やアドバイスという名を借りた人格否定が延々と続く間、友達は教室の外で待っていて、そのお説教も筒抜けだったが、自分の中でどう処理をしていいのか分からないので、多分平然とした様子で合流していつも通りに帰ったけど、多分内心とても傷ついていたと思う。

親からの否定

そして最後の決め手は親からの否定だった。

1年生のときには、毎朝学校に行く時間になると喧嘩をしていたと記憶している。

「行きたくない」「行きなさい」「行きたくない」「行きなさい」「行きたくない」「行きなさいって言ってるでしょ!」と言ったやり取りが繰り返される攻防戦である。

その戦闘の中で収束の目処が立たないと「どうせ友達がいないからだ」とか、あんたはこうだから、ああだからと、もはや無関係な一方的な決めつけや人格否定も織り交ぜられる。

ビンタされたときもあった。

「行きたくない」と言っているのに家を出されて、泣きながら学校までの通学路をのろのろと歩き、どうしても行きたくないので、校門へ続く短い横断歩道の前で立ち止まり、また引き返して団地の道を行ったり来たりしたりしたり、制服姿のまましゃがみ込んで途方にくれたりしていた。

そのまま観念して教室へ行くこともあったが、あまりにも嫌で「車に飛び込めば行かなくて済むかな」などと真剣に思案していたこともあった。

そうは言っても前述の通り、あなたのお子さんはおかしいと言ったことを言われていたのだろうし、そうじゃないときも「何でこないんですか」「来させてください」とか、勉強が遅れるとか将来どうするんですかとか色々言われたろうし、家庭環境やあなたたちにも問題があるのではといった目を向けられたこともあるのだろうと思っているので、今そういった行いについて責めるつもりなど微塵もない。

今振り返ってもこんなややこしい子供はめんどくさいだろうなと思う。

しかし、それが「普通にできない」という強い自己否定をするようになった一因にはなっていると思うので記憶に残っていることを素直に書く。
でないと書いている意味がない。

社会不適合の烙印

「学校に行けない」という人生の中でたったひとつの、しかしその時唯一やらなければならない重要課題が出来なかったことに対して、「この子はダメな子だ」という感じで、人生と人格全てに早々と×の烙印を押されてしまった当事者の心情は、中々筆舌しがたい。

一学年 100 人くらいの世代だったが、中2までは確か私だけ、中3の頃もう一人不登校になった子がいると聞いたけれど、99 人・ 98 人の同い年の子が当たり前に出来ることを出来ない、というのはたとえ責められなかったとしても中々キツイものである。

それに加えて外部からそのような目を向けられるのと同様に、親からも「何でこの子は普通じゃないんだろう」「普通に通ってくれればいいだけなのに何故この子はしないんだろう」 「他の子と何が違うんだろう」と言った否定的な視線は常に感じていた。

そしてそれに対して成人する年齢になるまで申し訳なさを感じていた。

「ごめんね、普通に出来なくて」と。

「普通の子じゃなくてごめんなさい」
「普通のことすら出来ない自分は存在していることが迷惑だ」
「いない方がよっぽど世の中のためにいい」

この一連の流れで、自殺未遂に繋がる自己否定感は完成されていった。

その後成人してから

そしてそれは未遂に終わったので今こうして記事を書いている。

18歳くらいから色々な本を読んだり、良いとされる行動や考え方、生活習慣を取り入れたり、自分で自分を見つめながら、自信と病の回復に努めた。

そのおかげなのか、子どもという自身の力で選べるものが少ない閉鎖的な状況が終わったせいかは分からないが、精神状態は良くなっていった。

随分後にはなったが通信制の高校へ行き直し、無事卒業することも出来た。

睡眠障害と不安の問題はいまだ解決したとは言えないが、随分改善したし、摂食障害なども自力で治して、以前と比べれば健やかと言える範囲には収まっていると思う。

社会的なものでも芸術活動で個展を開催したり、自分で事業を始めたり、あの頃があったから今があるのかもしれないな、と嫌な過去を肯定できるようになってきた頃に太田三砂貴さんを特集した番組を観た。

高IQだと言うのに大学教育を受けていない、それを生かした仕事も出来ていない、もう少し社会がサポート出来なかったのかといった内容だったので、この番組が今回の政策に繋がったのではないかと考えている。

確か検査も自分で受けて判明したと放送されていて、私の親が学校の知能検査の結果が高く、祖母が呼び出されたという話を聞いていたため、自然に判明するものだと考えていた私はそうではないと知り、とても驚いた。

そしてそういえば自分はどうなんだろうとネットのノルウェーのMENSAのテストを試しにやってみたところ、入会基準である130(標準偏差24の場合148)をちょうど超えた。


こちらは推論しか測れないようなので、言語など様々なものが測れるテストを受けてみることも検討する必要はあるが、特徴などを調べ、幼少期の色々な体験と照らし合わせてみると、自分のなかで腑に落ちる部分が多かった。

また当時山のように聞かれた質問である「何で学校に行かないの?」という質問に「分からない」としか答えようがなくとても困ったのだけれど、これを知ってから要因のひとつだったのかもしれないと、自分自身の理解の手助けになった。

過去を振り返って

前述の通り、色々責められたり、怒られたりしたことで、周りを責める気持ちも、恨みもない。

学校側も不登校児がいる何か不都合があるのかもしれないし、面倒くさいのかもしれないし、 クラスに一人でもいるということ自体に何か問題があるのかもしれない。

理解を示す先生や、うるさく言わないでくれた先生、気にかけてくれた先生や同級生も沢山いた。

ただ、大人になっても、職場でも、社会でも、自分の理解できないことを悪いことだと認識 してしまう人もいるし、想像力や共感力、視野の広さも人によって違う。

いたし方のないこと、である。

そして今は自分のことも責めていない。

迷惑をかけてしまったことはあると思うが必死に悩んで、苦しんでいた。

精一杯生きていたと思う。

それでも、あと少し何かが違えばあそこまで苦しまなくても済んだかもしれない、とも思う。

自分を追い詰め、痛めつけなくても済んだかもしれない。

学校側の対応のちょっとした違いで、親の対応や家庭の環境の少しの違いによって、周囲の理解によって、または自分自身を理解する手掛かりによって、あの頃わたしはあそこまで自分を追い詰めずに済んだかもしれない。

ギフテッドまたは不登校の政策について

そうなのであれば、今同じような環境にいる子たちも同じで、ちょっとした理解でその子が救われることもあるのでしょう。

今回の政策は、その第一歩ではないのかなと思います。

不登校の時にはどちらかというと、発達障害の疑いのような方向性が多かったように感じま す。

成人してから一度心療内科に行った時も、過去のことを聞かれ不登校だったことを話したらすぐさま「発達障害といわれませんでしたか」と聞かれました。

もはや連想ゲームのようになっているのだと思います。

こういう傾向があるので発達障害をまず疑いましょう、といった不登校児マニュアルでも出回っているのでしょうか。

もっと前はこういう発想すらもなかったと思うので、発達障害による不登校で悩んでいるお子さんや親御さんは以前より、原因とそれによる対処が行えるようになったと思うので、これはこれでいいと思うのですが、その一択しかない、ということに違和感を覚えます。

今回ようやくもう一択増えるという一歩なのだと思います。

今までは可能性すら検討されなかったことが、違う角度から見られる可能性が広がったというのは、少なくても明るい兆しであると感じます。

もちろん、全ての人が理解出来る、もしくは学校側が適正に判断出来るかというのはまだ怪しいですが、「不登校=発達障害」「不登校=いじめ」といったところからこぼれていた子供にとっては、違うレッテルを貼られないということだけでも可能性が変わってくるはずです。

発表されたギフテッドの定義などをみていても、まだちゃんと理解して発見してあげられるレベルではないのかもしれないということも感じてはいますし、IQの数値だけではないので詳しい人でも難しいものなのかもしれません。

どう定義していくのか、どう判断していくのかということも、サポートと同じく、より進んでいる国から積極的に学んでいく必要もあるのだと思います。

でも、一歩がなければ二歩も三歩もありません。

これからの可能性に期待するのと共に、ひとりでも多くの子が自分の可能性や特性に気付き、それを伸ばし、自分を否定しない人生を歩めるように願っています。


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