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ガンジスで沐浴するような女 その参


こちらのつづき。その参です。

古代インドの宇宙観のような宇宙に浮かぶ

旅行前に調べてみた時には「とにかく日本人には沐浴をお勧めしない」という話しか見つけられなかった。赤痢になった人、腹痛で帰りの飛行機に乗れなかった人などの怖ろしいエピソードも読んだ。だが、この優しい家族に混ぜてもらっての沐浴は安らぎしかなく、水への恐怖心もどんどん薄れた。

そして、おずおずと、飲んでみた。
無味無臭。かすかに砂っぽいような気もした。
シェイクスピア『マクベス』の魔女の有名なセリフを思い出す。きれいはきたない、きたないはきれい。

「インドに行って人生観が変わった」などというような陳腐な人生観は持ち合わせていないが、「ガンジスの水を飲んだ」という事実はかなりのキックだった。先ほど此岸で見た火葬の火、生活排水、動物の死骸。見知らぬ優しい家族。父を亡くしたばかりのガイドのおじさん。そして母を亡くしたわたし。
死んでいること、生きていること、人間、動物、清潔、不浄、人種、国、地球、宇宙、もう、全部が同じことのように思えた。

明確に名付けられるものなどこの世になく、すべては混沌の中に存在している。いや、むしろ、すべては存在しているのかすら定かではない。映画『ウディ・アレンの影と霧』に出てきた「この世は存在せず、すべては犬が見てる夢だと言う」というセリフを思い出した。この世もあの世もない。天国も地獄もない。なにもない。

目を閉じて川の流れに浮かんでみると、水音と太陽の光、人々の優しいさざめきが心地よかった。浮かびながら、こどもの頃に大好きでよく眺めていた「古代インドの宇宙観」の絵を思い出したりした。

古代インドの宇宙観
こどもの頃、この絵が大好きだった

いま、わたしの下にはガンジスが流れ、その下にはきっと、大きな大きな山があって、その山を大きな大きな象たちが支え、その下にはもっと大きい亀がいる。そしてその亀はすべてを包み込む大蛇の上にいる。この宇宙は、きっとそんなふうになっている。ずっと揺蕩っていたいと思った。

足元は砂地だった。足の周りを時々何かが通っていく。多分ちいさな魚だ。足指で砂を掴み、ハーフパンツのポケットに入れた。

そして、手指がふやける程の時間をガンジスの中で過ごし、ようやく小舟に上がった。寒くも暑くもなく、気持ちがよかった。
近くにいた女性たちが、わたしが持参していたサリーを着つけてくれたりして、インドの人々の優しさに胸がいっぱいになった。

綺麗に着付けてくれた

この世もあの世もない

サリーを纏い、小舟で彼岸から此岸へ戻りながらぼんやり思った。

母さんはもういないけど、ずっといる。母さんの愛犬シェリも、もういないけど、ずっといる。2人にはもう絶対に会えないけど、ずっと一緒だ。今も一緒だ。どこにも姿は見えないけど、心からそう感じた。

すべては流れ続ける。この川のように、きれいなものもきたないものも、生きているものも死んでいるものも、すべてを包んで時は流れていく。

なぜ、インドの人々が親を亡くした時にこの川に来るかが少しわかったような気がした。

わたしは元から、「お母さんもきっとあの世で幸せに暮らしているよ」とか「あの世から見守ってくれているよ」とかの考え方は好きではなかった。いやむしろ、実は大嫌いだった。死んでまでなぜ誰かを見守らなきゃいけないんだ。勘弁してよと思っていた。少なくともわたしは、死んだら、おしまいにしたい。

でも、生きている者の中で、大切な思い出と愛する者はずっと生き続けるのだ。愛とはきっと、そういうことなのだ。

この考え方が、ガンジスに来てみてさらにしっくりきた。
そういうことだったのだ。

かあさん。

大好きなかあさん


(つづく)


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