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私の叔父は、9歳の時に両親をそれぞれ病気で亡くしている。彼の姉(私の母)は、当時19~20歳で、10歳はなれた姉弟2人は半年の内に突如孤児になったということになる。彼らの父親は寺の住職だったので、その寺の存続のため、彼らの父親の兄弟にあたる人たちが後を継ぎ、その家に移り住むようになり、家の様も、彼らの人生も、その時から激変したという。

今から4年前に、彼らの亡くなった両親(私の祖父母)の50回忌を彼らの生家の寺で行った。そこで、喪主になった齢60の叔父は、法要の後の会食の席で、ぼろぼろと涙を流しながら言った。




自分は小学校3年生の時に両親を失ったが、その葬儀で泣いた覚えがない。今日の50回忌法要でお経が流れ出した途端、そこで涙が流れてきた。やっと泣いた。

両親は齢45で行った。その年齢で子ども2人を残し旅立たなければならなかった無念さを想う。今、自分自身には3人の息子がいるが、父親になったからこそ、その重みを知る。自分の親たちは、一体どれほどの思いで逝ったのだろうかと。

自分は不甲斐ない親であるが、
親は、生きているだけでいい、
親は生きているだけでいい、と思う。

(過去ブログ)
 



子どもの時に、注ぎ続けてもらいたかったものを、突如絶たれた絶望の悲しみに、
自分自身がアクセスし、その涙を流せるようになるまでに、50年の年月がかかっている。

時に、たましいは、体を持った旅の途上で、愛が欲しいと切に叫び、求め求め求め尽くして、それでも得られなかったという、残虐で無残な体験をからだに刻み込む。絶望と失望で、決して自分は求めたものを受けるに値しないのだと、或いは、これは自分が悪かったから起こった報いなのだと、その傷をさらに裁き、自らに刻印づける。
そこまでの非情極まりない体験が、実は自分の想像できる範疇を超えた、無上の愛の深さを知る理由だったのだと、旅の途上のある一点で全てが裏返る日が、いつか、いつの日かやってくる。その日へ近づくため、失望し続ける日も、雲間から一瞬の光が差す日も、変わらず、求める光を得たいと向かい続けている今日という日。

そのたましいは、それぞれ、何を体験したいと願い、ここへやってきただろうか。
それぞれ、今回の人生で、どのように愛からの分断と孤独を体験し、さらなる想像を超えた愛へと、どのように回帰することを、選んできただろうか。
どのような、勇猛果敢な物語を紡ぐことを意図して、ありとあらゆる事象を起こさせたか。

自らの内に起こることと、出逢う人に起こることを眺めながら、深められてゆくこの世界の魔訶不可思議さ。

「私は、親に愛されなかった――胎児の頃、幼少期の頃。望む愛を求めても得られなかった。そのことをゆるせない。そして、今、親をゆるせなくていい」

そう頷き、愛を注いでくれる別の大自然たる存在に安らいでいる人たちを目の前にした後、どうしようもなく猛烈に首筋が痛くなった。この痛みは何か、ととらえ続けて、2日後辺りか、お風呂で湯舟に浸かり、首の痛みが緩み、体の緊張が溶けかけた、その瞬間に、ふっと体内の何かの配線がつながり、涙がこぼれてきた。あぁ、あの人たちは、泣けなかったのだ、と思う。
私の涙ではなかった。あの人たちの流したかった涙だった。

本当は泣いて泣いて、どうして愛をくれないの、と喚き散らしたかった。わんわんと泣き叫んで、怒りと悲しみをぶちまけたかった。それすら、きっと、できなかったのだ。それをしても、結局、報われなかったのかもしれない。泣くことすら、諦め失望して、ゆるされないと、封じてしまうくらい、きっと絶望が深かった。

私が癒しきれていない、うずく傷に、共振した。

私の体の奥底にある湖から、水が湧き出て、潤い、筋繊維の間に流れ込んで緊張が緩んだ時に、痛みがふっと和らいでいた。

深い深い泉から湧き出る水が、全てを癒していく。そして私たちの体の底に、この湖がある。

私は、強くなりたいと願っていた。外界がどうあろうとも、自分自身が安定したこころと体を持ち、影響を受けず、自らのやわらかな強さを発する自分でありたいと。
毎回のことだが、リトリートをして、ある日数、外界との連絡を遮断して、自分の内側に集約されたエネルギーを聞くことを始めたら、水面が穏やかになる。もう統合されてきた、穏やかになったと思って自分の扉を開き外界へ出ると、敏感になっている感覚受容器官が、以前よりも一層、外の光の強度や音の強さを感じてしまうということに直面する。以前ならなんともなかった事柄や人の様子に、強烈な痛みを覚える。そんな自分は一見、むしろ以前よりも弱くなったように見える。そこまで敏感な身体を、なぜ選んできたか。
強い自分になろうと思ったが、そう願えば願うほど、弱い自分に出逢うのだった。それは、ある側面を強調するときに際立つ反対の側面で、それもまた私なのだった。
より透度が増し、内部のしこりと、外界から流れ込む波に共鳴共振する身体。

参加しているオンライングループのセッションで、ボリビアのチチカカ湖を取り扱っていた。「何度破壊しても、何度でも生み直してあげる――」チチカカ湖は、そんな無限大の愛で包み込み生命を生み出そうとする母性の象徴の湖だった。私は、チチカカ湖のようでありたいと、この透過性の高い体で分不相応な願いを打ちたてて生まれてきたのかもしれない。どうやっても、チチカカ湖のようにはなれない、私は誰もを愛し抜きすべての人の苦楽を共にすることなんてできないと、小さな自分の限界をも経験することをも望んで、生まれてきたのかもしれない。その両者を経て、両者を受け容れて、自分という存在の多層的な色合いを深めていくことを望み。
目の前の相手と共に泣き、笑い、小さな自分に手が届き出逢える人と可能な限り、清濁併せのむことを体験したいと思い、選んできたこの身体。背負う必要のないものを背負い、全くもって脆弱で、弱さと繊細さを深めていくばかりの、この情けない身体、それに気づいた時に自分が愛おしく、小さな自分の頭に手を置く。

そうして思う。私は強くなりたかったのではなく、ただ、一等弱い自分にやわらかくありたかったのかもしれないと。この脆弱さに、そっとふれられるだけ、やさしくありたかったのかもしれないと。これまでの世で圧倒的に不利なこのあり方も、これだけ繊細な自分にふれられるだけの繊細さで、人にふれたかったからなのかと。

どのような今も、十全に愛し抜くこと――
どれほど情けない自分も、どれほど弱い自分も、どれほど醜い自分も、決して見捨てないこと。
その瞬間の連続性。それを体験したくて、今この自分でいるのかもしれない。そんなゆるしの今の瞬間の次に、もう変わり続ける世界が目の前にやって来る。

関わる人に自らの内面を反射され、癒し、涙し、ようやく私自身がある深度に辿り着いたころに、ぽつりぽつりと、私に相談したいと、連絡をくれる人たちがいる。そうして、語ってくれるその人たちの物語はまた、たましいが呼び求める深い深い叫びと、それに応えていこうとする、永く壮大な冒険の、ある一篇なのだった。

こうした物語を聞いて、あの人だったら、どう言うだろう――と、思いを馳せる。私の自分の命の灯が消え入りそうになり、自分への不信と嫌悪で、もう立っていることもできなくなりそうだったあの頃に。灯火を求めて、もつれるような足取りで、あの人の前まで行った私に。
私はあの人に何も言わなかった。ただ、私を一目見るだけで、分かってくれた。
「息してるだけでええ。息してるだけで、ええからね。」とだけ言って、きつくきつく痛くなるくらいに私を抱きしめてくれた、あの人なら。

今、変わらない穏やかなトーンで、イヤホンから私に語りかけてくれるあの人なら。どんな弱い自分も見捨てない、どんな自分も諦めない、ただただ圧倒的な深さで寄り添ってくれる、あの人なら。
あの人なら、この物語を聴いて、どう寄り添い、どう相手のいる場まで降りていき、どんなやさしいことばをかけるだろう。

どこまでもどこまでも、自分を裁くことなく、瞬間瞬間の自分に寄り添い続ける。そうしたあり方で存在し、自らに傾ける真摯さと同じ深度で、どこまでも目の前の人に寄り添い続ける、私の人生で出逢った、大切な敬愛するこの人たちをこころで呼び起こす。その人たちがどこまでも深く迎えにいってくれるその地点、ここまでかと涙し驚く地点まで、私もいつか、降りていきたいと願う。いつも、全身で相手の傍らに降りていって、どこまでもどこまでもやわらかく思いを掬えるように。拙い身で、私はこの人たちをこころの中に呼び寄せ、目の前の相手を眼差し、共に彼・彼女のたましいの地図を眺め渡しながら、拙い言葉を、相手にかけていく。そこに秘められた勇猛果敢な絵図に隠された秘密は、必ず驚異するものであると信頼しながら。

癒すのに、何十年かかってもいい。私の叔父は、50年かかっていた。それでも、たましいの中心にある叫びにふれる度に、幾たびも刻み込まれた傷は振動し、何度でも、痛みはぶり返すのかもしれない。たましいがたずさえてきた核なる願いにふれるとはそういうこと。そうした痛みを何度も経験することさえゆるすことを選んできた。
だから、何十年かかってもいい。そこに、私は、全幅の信頼と、許可を出せるだろうか。その信頼と許可の元、針の先の一点の希望で、オセロが全てひっくり返る、そのきっかけの布石を、置くことができるだろうか。

そうした時に、チチカカ湖の意識になれば良かったのだと思い当たる。あぁ、この小さな限界のあるわが身で捉えようとしていたから苦しかったのだ。いつも非言語の体のセッションで向き合う際に呼び寄せ、繋がっていた無限の神性。あまねく自然の力が働き、自らはただその管となり、奇跡が起こる時空間を保持するだけの役割になれば良かったのだ。そこに自ら苦を感じることはない。ただ大きな治癒の最中、歓喜だけがある。その在りようを、私は、セッションであろうがなかろうが、いつも続けていればいいというだけの話だった。それが、私が楽に、私自身で居つづけられる道だった。

新月に、時間をかけて、自らの浄化と願いを浮かび上がらせる、深い深い誘導瞑想を受けていた。イヤホンを通して耳元で誘ってくれる人が、終盤で、「鏡を見て」と言った。「そこにある眼を見て」と。
そこに、穏やかな両の眼があった。黒く、じっと、私を見つめ続けていた。私がどんな私でも、変わらず、細やかに見守り、気遣い続けるように、眼差していた。愛は、こうして、私を眼差し続けてきた。私が生まれる時から、今も、これから先も、永遠に。そうして、私は、この愛にならんとしているのだった。この眼差しを、自らの眼差しとし、この眼差しで、自らを眼差し、この眼差しで、世界を眼差そうとしているのだった。水中ボディワークのセッションで、私は、この眼差しで相手を見つめていたのだと、ふと思い当たった。だから、あの人たちは、背後にいる大きな水の存在を感じて、私の両腕から離れた後、涙していたのだった。この眼差しで生まれた時から眼差されていたことを、思い出して。

ふっと癒された時に、涙がこぼれる。それは、自らの内側の深い深い無限の湖に、自らがアクセスしたという印。根源から湧き出る、無条件に自分を愛する無限大の湖から、いのちの水が体内の水脈を通り、自分を潤したという印。その無条件の慈愛の湖を、誰もが持っている。私たちは、そこにふれたいだけなのだ。その水で、渇きを癒したいだけなのだ。すべてはそのための、壮大なたましいの物語。分離した私たちは、相互に照らし合って、ただ潤い、源泉(ソース)たる水から(自ら)生まれ、水へと還ってゆく物語を織りなし続けている。


2021年 バリのウブド。人の目から隠された、小さなけれど神性な湧き水の出る村で


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