見出し画像

ヒーリング講座で、止まっていた生理が戻った話

先日開催した、オンラインの無料ヒーリング講座の最終回の前夜に、8か月止まっていた私の生理がやってきた。流れる経血を見て、感動して嬉しく、トイレの中で小さな叫び声をあげてしまった。明らかに、その2週間前に行ったヒーリング講座第2回が起点になったのだと思う。その日は「グラウンディングする力」をテーマに、地中から生命エネルギーを引き上げ、自分の背骨を昇らせて基底に眠っているクンダリーニを活性化させるという瞑想ワークを参加者の皆さんと一緒に行った。それがまさに、私の生命エネルギーを着火させてくれた。

講座を企画したのは私自身で、ワークの瞑想は、自分がこれまで、一人で数か月やってきたものだった。けれど、講座の中で自分がその瞑想の誘導を行い、そこに参加された人たちが体験した、とてもビビッドな映像と身体感覚のシェアを聴き、さらにそこから個別にメッセージでやり取りをさせてもらうという連続した体験が、私の意識にも身体にも、弾けるような衝撃と刺激、活力を与えてくれた。あまりのことに驚いた。これはとても自分ひとりではなし得ないことだった。

骨盤基底の第1チャクラ、ここは大地とのつながりや根本的な身体の健康、生命力がテーマのエネルギーセンター。そのすぐ上の第2チャクラは、人間の基本的な感情や感覚、セクシュアリティなどがテーマ。私にとっては、身体の全チャクラの中で、圧倒的にこの2つが弱さの目立つ場所だと思う。

私は29才の時から去年までの7年間、ほとんど生理が止まっていた。今から1年前のある日、バリでゆったりと過ごし、水中ボディワークのセラピーを受ける中で突如生理が戻ってきたのだが、今年の1月から、ちょっとしたストレスを経験してからまた止まってしまった。元々、10代の頃から生理不順で、ストレスに弱く、貧血や低血圧、不定愁訴で悩み続けてきた身体。ほとんど寝たきりで家から出歩けない時期もあったが、少しずつ少しずつ自分の全体バランスの回復にエネルギーを注ぎ、また海外へも出歩けるくらいの体力を取り戻してきた数年だった。それでも、生理だけはなかなか戻らなかった。そして戻っても、身体が緊張状態に置かれたら、またすぐに止まってしまった。

人間の身体は、危機状態に陥った時に、まず生殖機能から削ぎ落とすらしい。生殖機能とは、次の生命をはぐくむ機能。生理が止まるということは、今の自分の身体だけを維持するのに精一杯で、身体にとってとてもそれ以上のゆとりも余裕もないということ。身体はいつも、合理的で賢い。そこには必ず、「自分のからだを第一に守る」意図と仕組みがあるようだ。

ここのところ、画面の見過ぎや、環境的なストレスで身体がずっと緊張しているのを感じていた。生理を起こせないくらい身体は必至なのだよ、という身体からのメッセージがありながら、頭を使って活動し、行動するようにとアクセルを踏み続けて、自分の身体を聴いて感じてゆくことを、私はまた、忘れかけていた。身体の内部で起こっていることを、想像する意識を。関連する部位の表面に、触れて、皮下組織を感じてゆくことを。そして、さらに時間をかけて、その内部にある臓器の微細な動きを感じ取ってゆくことを。

「グラウンディング」がテーマの講座の日、大きなエネルギーが巡って深夜1時頃まで寝付けなかった。そこで参加された人との会話を発端に、私は五感で感じる悦びが何だったか、自分の身体を探索するようになった。生殖器系にどうしても不調和が出やすいのは、小さい頃の性的暴力を受けた身体のトラウマ体験が、やはり解消しきれていないためだとも思う。

頭で考えることを辞めて、自分の身体をアーユルヴェーダのオイルでマッサージし始めた。やっと、身体の細胞が少しずつ緩むのを感じた。あまり動きたくない、幸せな感じにたゆたう気持ちに。

微細な身体のニーズを引き出して、響かせられるような身体でいたい、と思った。去年の今頃、7年越しに、生理が戻った頃の記憶が甦ってきた。水中のボディワークを学んでいた頃。温かい温水の水中で、先生の手で頭をそっと支えられながら、海水と同じ塩分濃度の母なる水が、私の身体を全方位から包みこんでくれていた。母親の胎内に戻るような体験だった。ここには一切恐いものはない… ゆらゆらととめどない小さな波で身体が揺さぶられながら、私の体内の水も、振動し流れ始めたのだった。あらゆる筋膜がリリースされ、筋繊維のどこかに記憶されたフリーズした恐怖はみるみる内に溶けだし、言葉にならない涙が溢れに溢れて止まらなかった。どれほど泣いただろう。どれほどセラピストの友人たちに抱きしめてもらっただろう。「なみだ」・・・ それは、からだの中から起こる、波 だ、だった。

もう、生産的に必死に生きなければと自分を追い立てることをやめよう、ただ身体が抱きしめられ揺られ続けることをゆるそう…そう思っていたある日、突然、それはやってきた。ある水曜日、いつものように家の近くのカフェで1時間の瞑想をした直後。小雨が降っていて肌寒い日だった。瞑想中に、普段は感じない、下腹部と腰、背面の重だるさを感じていた。昔よく、生理前に経験していたような感覚で、まさかと思いながら、カフェで大好きなチャイラテを震えながら飲み、身体を内側から温めた。

家に帰り、トイレに入り、あっと叫んだ。まさか経血を見ることができたなんて。身体の素直さに涙が出た。私には子どもの頃にレイプされた記憶がある。その時に刻み込まれた、触れられることのトラウマがあることを水中ボディワークの中で自覚し、その体内の配線を再構築しよう、そう意識を傾け始めたのが、ちょうどその2週間前だった。ちょうど自分が意識を傾けたその日辺りに、おそらく排卵がされて、子宮に血液が流れ始めたのだと思う。

私は、女性だった、と思った。当たり前のことだったが、生きる中で、きっとそれが当たり前ではなくなっていた。女性として生まれた身体を、否定して生きなければいけない状況があった。身体はいつもその状況を敏感に察知し、賢く、その状況に合わせて反応をしていく。そして、また、自分自身がそのままでいいと、あるがままの女性性をゆるそうとした時に、即座にそれに応じた反応をしてくれる。


そしてここ数か月は、またもや生活することに精一杯になり、都市の環境と人々からの毒素に囲まれ、こころと身体にとっての安心からは、遠のく状況だったのかもしれない。東京には、周囲に、私がすべてを投げ出して委ねられるプールや海がない。大好きなセラピストの友人たちがいない。身体は、再び女性としての機能をストップさせた。それにもそれ相応の理由があったのだと思う。

けれど、東京であっても山へ行くと、清涼な空気が全身を包み込んでくれた。家には、お風呂があり、毎日のように湯舟に浸かり、筋膜や固くなった頭皮をとろけさせることができた。私を産み、育ててくれた、私が安心できる母がいた。オンラインで出逢った、信頼できる人に自分のことを相談できるようになった。

「何かになろうとしなくていい、愛子は愛子であればいいのよ」

「自分の身体を信じてあげたらいいと思う」

「産む性に生まれた自分を、とっぷりと大切に扱っていこうね」

その人は柔らかい言葉を折々で私に届けてくれ、その言葉がしっかりと優しい膜になって私のからだを包んで励ましてくれるようだった。少しずつ、また自分の身体を感じようと、恐る恐る自分の強張りに触れていくことを始めた。

そしたら、身体は即座に反応してくれた。身体は待ってくれていたのかもしれない。私がそこに意識を傾け、触れ、潜り込んでいくことを。自分の弱い、第1チャクラ、第2チャクラへの没入とその内部への探索と探求、歓びを感じることを。
私一人ではなし得なかった状況が、ヒーリングの講座に参加してくれた人たちの集合的なサポートで、一気に弾かれるように、エネルギーがスパークした。おそらくその講座をした日辺りに、排卵がされ、また8か月振りに、私の身体は生理を起こしたのだった。

久しぶりに全身が気だるい中で、横になって血が巡りながら、ありがとう、とからだに呟いた。涙がこぼれた。

人間のいのちを生み出す、神聖な性的行為が、忌み隠され、歪められ、嫌らしいことと思い込まされ、さらにその歪んで抑圧された衝動性を解消するために残虐な暴力性へと変化したり、大々的に商業化されるようになるなど、恐ろしい人間社会になってしまったのはいつからのことだろう。作家で陶芸家の佐藤シューちひろさんが、「第1チャクラ、第2チャクラは支配層によって封じ込められてきた。本来の人間自身の力を大地から切り離すために」と言っていた。人間は、元々が支配したり支配されたり、戦争をする生き物だったわけではない。縄文の人々は争いなく、調和して生きていた。それが本来の人間の自然な姿だった。けれど歴史のある時、支配者層が現れ、大地に根ざしていのちの力と直結し、地域の中心的な存在であった巫女的な女性を、その村の聖地で残虐に殺め、貶めたそうだ。それによって、人々には凄惨な記憶が植え付けられ、人間は大地やいのちの円環と直結した大きなエネルギーから切り離されてしまったという。


ちょうど数日前に、バリ島のウブドにいる妊婦の友人の写真がインスタグラムで上がってきた。


イギリス人の彼女は臨月を迎えていて、これから助産院で自然出産をすることになる。彼女を、彼女の友人の女性たちが囲んで「ママになる女性のためのセレモニー」として、たくさんの花で彼女を飾り祝福していた。素晴らしく美しく、見ているだけでその花と彼女の芳香と神聖さ、歓びが匂い立つような写真。このセレモニーは、生まれてくる赤ちゃんよりも、母親自身を祝福し護るために行われるものだそうだ。女性が、「乙女」であった自分を埋葬し、「母」として変容する、その生まれ変わりを祝福する儀式。彼女を大切に思う周囲の女性たちが、大勢でサポートする。母親が存分に護り慈しまれているなら、その愛は自然に赤ちゃんに伝わる。

そうした儀式は、伝統的な民族の間で自然に行われてきたものかもしれない。ワンオペ育児だなんて現代を横行している言葉は、それを耳にするだけで辛さで身がぎゅっと縮こまる。子どもを産み育てるとは本来そのような孤独で苦しいものではなくて、本当なら、子どもを育ててきた(あるいはこれから産もうとする)多くの女性たちがサポートする中で、女性が安心して、新しい命を産み出すことができ、共に育てていけるものなのだと思う。赤子が産道を通って生まれ、そしてその後も成長していく中で、女だからこそ体験を通して分かる、様々な智恵と手助けがいくらでも自然と与えられ、また経験した人は次の女性へとそのサポートを受け渡されていく。本来、きっとそうしたあり方だったのだろう、地域社会は。


微細な身体のニーズを引き出して、響かせられるような身体で在りたい。全身で緑と水のシャワーを浴びて、優しくくすぐられるような心地よさと楽しさ、探求心が散りばめられた身体。内部がよく振動し、オーケストラとして鳴り響き、外部とも連鎖反応を起こして、とめどない発露と創造が渦巻くような身体に。

私がこの人生で、子どもを授かるかどうかは分からない。けれど、産む性として生を授かり、生まれてくるときに既にすべての卵子を包含した身体。この中に、きっと、無条件に人を愛するDNAが眠っている。私を慈しんでくれる母、私のすべてを包んでくれる、母なる海。その姿を模倣する、小宇宙の設計図が、私の体内にもある。それが、何らかの形で、発動される日を待っているのだと思う。

それはいつかの夢で、今はまず、とっくりと、女性であることを、慈しんでみたい。自分自身を存分に愛すること、自分自身を大切にすることに終わりは尽きない。自分の内側から開かれていく花弁が楽しみでもある。幸せになっていい、そんな許可を出せるのも、自分自身なのだろう。母から次の母へと、受け継がれてきたこのいのちが与えられていること、不可思議な愛の設計図が、ありったけの卵細胞の中に内包されていることに、感謝して。

人よ
私は雌鳥(めんどり)のような
理屈抜きの情熱で抱きしめる
希望と親愛の たまごを抱きしめる
緑の影に胸を高鳴らせ
心ふるわせ
私はたまごを抱きしめる

新川和江さんの詞 「春」より


「グラウンディング」のヒーリング講座の後で自然に抱かれる自分をイメージして描いたもの。安心安全に包まれて、すべてのチャクラエネルギーが解放されるようにと願った。絵を描いたすぐ後に、自分の願いが叶うとは思わなかった。



「はじめてのヒーリング」講座にご参加くださった皆様、ありがとうございました!すごい会でした。(笑) これも導かれたことだなぁと思います。



◎オンラインの個人セッション行っています。一人ひとり違った道のり。あなたの全体性へと近づく、ヒーリングの道しるべになれば、と思っています。

読んでくださってありがとうございます。もしお気持ちが動いたら、サポートいただけると嬉しいです😊 いただいたサポートは、よりよい活動をしていくための学びに使わせていただきます。