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名優 錦戸亮の帰還。

 名優・錦戸亮が還ってきた。
 映画『羊の木』の吉田大八監督との再タッグ「No  Return」(2020年。Amazon Music Originalの15分短編。Amazon Prime Videoで視聴可能)では堂々たる映画スタアぶりを発揮していたものの、長尺の映像フィクションはここ4年ご無沙汰だった。
 現在、「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(NHK)が放映中。そして、「離婚しようよ」(Netflix)全9話が2023年6月22日、一挙公開された。
 みじろぎもせず。名優は、いま、キャリア最良の時を迎えている。沈黙はむしろ、稀有な表現力を熟成させた。

 「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」では、不在の父親を演じている。ある時は、家族の守護神として、ある時は、臨終間近の回想場面で、彼は登場する。
 無念の、突然の病死を遂げた父。彼は霊として、今も家族を見護るが、彼の姿は、ダウン症の息子しか感じとることができない。
 一歩間違えば、お気楽なファンタジーに堕しかねない。だが、錦戸亮は理屈を超えた軽やかな存在感で、作品全体に独自のリアリティを付与した。
 第6話では、遂に主人公である娘の目に、父の姿が映り込む。七転八倒しながら、自分の道を進む彼女の前に、父は降臨する。
 娘が父に最後にかけた言葉は罵倒だった。彼女は今もそれを後悔している。この後悔が彼女を前に進めなくさせている。
 錦戸亮は、主人公の後悔を、これまでを、そして、これからを、すべて受けとめるように微笑んでいる。みじろぎもせず微笑む。微笑み続ける。
 微笑みには圧はない。だが、平然と娘を目を合わせ続ける父親の眼差しはどこまでも力強い。力強い優しさ。
 微笑というものの、神聖な、そして永続的な耐久性がそこには敷き詰められており、わたしたちにとってそれは気が遠くなるほどの体験となる。
 霊を演じているから神聖なのではない。
 錦戸亮の表現が神聖なのだ。

 彼だけが歩いている道がある。その轍の上で、ふと佇んでいる。そんな特別な風情は、これまでの出演作にもあった。だが、今の錦戸亮は唯一無二の輪郭が、破格の域に達している。しかもそれは硬直化したものではなく、極めて冷静で柔軟性のあるもの。
 「離婚しようよ」では、錦戸亮にしか編み上げられないオリジナルなキャラクターを創出している。

 「離婚しようよ」は、宮藤官九郎と大石静の共作が話題のドラマだ。日本を代表する脚本家二人が、2世議員と女優の夫婦が離婚するまでを、息もつかせぬテンポで描き切る。
 メリハリの効いたキャラクターたち、シリアスに落ち込むことなくバウンスし続ける連続性は、クドカンならではの雑食的スピーディさ、大石静の緻密なストーリーテリングが折り重なることで、破格の見応えを保証する。
 特筆すべきは、不倫をポップに描いている点で、これは地上波ドラマではほぼ不可能だろう。また、選挙戦や芸能界の内幕にもある程度切り込んでおり、こうした点はスポンサーに頼らないNetflixならではの自由が活きている。
 松坂桃李扮する二世議員が女子アナと不倫したことから、主人公夫婦に危機が訪れる。愛や絆が危うくなるのではなく、夫婦仲をアピールできなくなることで、それぞれの存在価値は不自由になる。
 つまり、プライバシーではなく、オフィシャルな外ヅラに支障をきたす。政治家にせよ、女優にせよ、私生活は商品の一つ。わたしたちは、子供ではない。流布されている夫婦仲に信憑性などないとわかっていながら、ひとたびスキャンダルが起こると「けしからん!」と怒ってみせる。あたかも「庶民」の役割を演じるかのように。茶番に茶番を重ねる、そうしたメディア構造も明るみにしていく作劇は痛快だ。
 仲里依紗演じる女優は朝ドラでブレイクし、順調に国民的女優に育った。地元・愛媛をこよなく愛するおぼっちゃま政治家とゴールイン。毎週欠かさず、YouTubeチャンネルを更新。夫婦揃って笑顔を振りまいている。
 言ってみれば両者はビジネスパートナー。だが、どちらも、ざっくばらんに割り切れるほどクールなわけではない。そこから一筋縄ではいかない七転八倒の物語へと突入していく。

 錦戸亮は、女優の恋のお相手を演じている。
 出逢いはまさにドラマ的で、ほとんどパロディの域にある。
 なんと一人で歩行中の女優の前で、その男は転ぶのである。ただそれだけだ。
 女優は男の煙草の残り香に、奔放な母親の記憶をまさぐられる。
 一目惚れしたのは男の方で、翌日、同じ場所で女優を待ち伏せ。声をかける。しかも、男は彼女が女優であることを知らなかった。それくらい世間ズレしているのだ。
 なんという陳腐な設定!
 彼はパチンコで生計を立てており、芸術家として作品作りに勤しんでいる。ポップさのカケラも、ヴィヴィッドな新鮮さも一切ない作品群は、売れていない。だが、彼はめげずに、ある確信の下に、創作活動を続けている。
 直球すぎるキャラクターも、気恥ずかしくなるようなシチュエーションも、錦戸亮が体現すれば、不動の深遠さが生まれる。
 深遠さとは何か。
 無職の髭面男に、観る側(わたしたちもまた出逢ってしまったのだ)が価値を与えていく。その愉悦のことだ。
 女優をイメージしたというオブジェをプレゼントする彼、恭二。女優は、そのアートを理解することはできない。だが、彼に魅了される。戸惑いながらも、魅了される。戸惑っているということは、つまり魅了されていることなのだと、わたしたちは知る。
 そうして、わたしたちも、戸惑いながら魅了されていく。
 恭二の背景は明かされない。無論、錦戸も説明的演技はしない。だが謎のプレイボーイではない。ある苦悩と共に彼が生きていること。しかし生きることに臆せず堂々と日々を送っていること。ひとりの人間の核と本質だけが浮き彫りになるように、錦戸は表現している。
 みじろぎもせず。
 虚飾を廃し、裸でそこに立っている。
 そっけない態度も、「来てくれてありがとう」も、すべて全力なのだ。
 超然としているわけではない。格闘している。揺れ動いている。だが、その姿は、賢者を思わせる。
 二世議員、女優、エリート弁護士、元・女子アナ……俗物だらけの世界観の中で、恭二だけが清冽な覚悟を感じさせる。

 錦戸亮のしなやかで強靭な演技は、恭二に、賢者の側面と、一途さの中にある微かな生臭さを、同時に与え、人間のあらゆる愚かしさを肯定してみせる。
 つまり、愚かな自分を全力で生きること。そのことによって、他者の愚かしさを抱擁するのだ。
 なぜ、そんなことが起きてしまうのか。

 やはりここでも、彼だけが別なゾーンにいる。そうして作品に付与されるものは計り知れない。

 基本的にはアップテンポなドラマが、恭二のシーンだけ、ふと立ち止まる。わたしたちは、めくるめく渦の中で、不意に我にかえる。

 錦戸亮=恭二が目を合わせてくる。彼が、形容不能な不安定な顔をしている。ただそれだけで、わたしたちは神聖な気持ちになる。だが、それがなんなのか、まだ名付けようがない。

 まなざしが丸洗いされるような心地よさ。手洗いの仕上がり。気づきによる、新しい地平。

 名優の帰還を心から歓びたい。

 まだ、映像演技には可能性がある。その真実を、錦戸亮は愚直に証明している。全てを投げ打つような、素っ裸の純情で。躊躇なく。みじろぎもせず。

 
 

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